今回のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)は日本の14年ぶりの優勝という結果に終わり大会期間中日本を大いに盛り上げた。特に準決勝対メキシコ戦での村上宗隆選手のサヨナラ逆転打と、アメリカとの決勝戦の最終回の大谷・トラウトの日米スーパースター対決の場面は忘れがたい。
世界でどのように報道されたのかは詳しくは知らないが、日本の報道をみる限り、日本の大躍進と同時に日本チームのまとまりの良さや立ち居振る舞いが海外でも注目されたようだ。
今回のWBCでは開催の一ヶ月以上前から日本チームは合宿を行い、特に早々とアメリカから帰国して合宿に参加しチームメンバーをリードしたダルビッシュ・有投手の貢献を評価する声が上がっている。世界を相手に戦うというこれまでにない緊張感のなかで、すでにMLBで世界を相手に戦ってきたダルビッシュのひと言ひと言は若いチームメンバーにとって大いに参考になったであろうし、戦う心構えも整っていったものと思われる。同時にこのメンバーで戦うのだというチームの一体感も醸成されていった。
他方、アメリカチームは招集された選手がすでにMLBで活躍する超有名選手だったこともあり、全員が集まったのは開催数日前で、それぞれが自分なりの調整をおこなっていたと報じられていた。彼らは、自分の実力を発揮できれば自動的に優勝できると思っていたであろう。少なくともチーム力などというものにはほとんど無関心だったのではないか。
一点ビハインドで迎えたメキシコ戦の9回裏、先頭打者の大谷翔平は二塁打を打った。二塁の塁上の大谷は日本ベンチに向かって、さぁオレに付いてきてくれといわんばかりに、二度三度両手を上に上げてチームメンバーを鼓舞していた。他方、メキシコの外野手アロザレーナは岡本和真選手のあわやホームランかという打球をジャンプして捕球し、直後に腕組みをして仁王立ちして「オレはすごいだろう」と観客に自分をアピールし、また観客もそれを熱狂的に受け入れていた。自分というものについての認識の違いが如実にあらわれていた。こういう場面に現れる「自分観」の彼我の差はもっときちんと理解しておいていい。
集団の一員であることを強く意識することでいつも以上の力を発揮する日本。個々人の卓越した力を何よりも重視するアメリカ。アメリカに代表される西欧の人間はなぜ個人主義的なのか、一方なぜ日本人は個人より集団を優先できるのか。
時代は遡るが、それまで雑多な神々をそれぞれに持っていた西欧諸国は長期にわたるローマ帝国の支配下でカトリックが国教となりキリスト教の唯一神が彼らの信仰の対象となった。神によって世界に秩序が与えられるところとなった。またその唯一神がいまでも彼らの精神を大きく規定するところとなり、西欧の人間は無意識にせよ「神あっての自分」という自分観をもつところとなった。彼らの世界では人間同士のつながりは神を介した間接的なものとならざるをえない。神が介在するからだ。かれらがわれわれ日本人からみて個人主義的にみえるのは当然のことである。親子関係も同じで、自分の子供といえどもはじめから別人格の人間であることが当たり前で、近代に入って「子供が発見された」などと言われている。自分の親の墓などもじつに質素だ。親あっての自分という感覚が希薄なのだろう。
そういう西欧の人間が幕末・明治の日本にやってきて、日本人が過度に子供をかわいがることを興味深げにレポートしている。日本人にとって親子は直接的な関係で結ばれている。親あっての子供であり、そこには何者も介在しない。子供を子供として慈しみ、亡くなった親には終生感謝の念をもちつづける、これが平均的日本人なのではないか。
今われわれが生きている近代という時代は西欧における神の権威が崩壊したところから始まったと言われている。しかし神の権威が後退し崩壊して、「神あっての自分」ではなくなったが、代わりに神に頼らなくとも「自分は自分として存在する」と考えるようになった。それが近代という時代の先鞭をつけたといわれるるルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我存り」の宣明であった。かれらの個人主義は近代に入って一層強化された。大事なことは、彼らは神を持つ(信じる)ことで集団としての規範を共有し秩序ある社会をつくることができたということである。
伝統的に西欧のような唯一神をもたない日本では、人間関係は直接的なものであることは前述した。では神という絶対者を持たずに日本はどのように社会秩序をつくってきたのか。むしろなぜ世界に冠たる安心・安全な国でありつづけられているのか。
人間には生まれつきの規範意識は備わっていない。生後育てられる人間関係の中でそれを体得していく。その規範意識を皆が共有することで秩序或社会が形成される。20年ほど前に「なぜ人を殺してはいけないのか」という子供の質問にきちんと答えられる大人が少なかったということが話題になったことがあった。また倫理・社会の先生が自分が教える倫理の根拠を説明するのに苦労するという話もあった。しかし答えは至極簡単。決められたルール(倫理)を守らなければ、また誰もが平気で人を殺してよいのなら、社会秩序は崩壊してしまう、つまり自らの存立基盤を失うことになるからである。
西欧社会では社会規範の根拠に神の教えを据えているから分かりやすい。聖書などにも守るべき規範が明文化されている。そういう神を持たないにも関わらずなぜ日本は倫理性の高い社会を作り上げてきたのか。それは、神に替わる価値を皆が共有してきたと考えるほかない。
日本は島国で、かつ温暖湿潤な自然環境に恵まれているため、同じ空間にいる他者、他集団をただ敵対者として認識せず、集団それぞれが自前で独立した共同体を維持していくことが可能であった。それは縄文時代の遺跡に激しい戦闘があったと思わせる痕跡が少ないことから推測できるのだが、古来われわれ日本人にとって世界は秩序立っているもの、その秩序は守るべきものという極めて特殊な価値観があったように思われる。自分を取り巻く秩序ある世界を「世の中」「世間」と呼んで、そこに流れる秩序を大事にする。殺るか殺られるかの無秩序で殺伐たる砂漠の世界を背景に成立したキリスト教が前提とする世界観と、はじめから世界を秩序あるものと考えそれを大事にしようとするわれわれの世界観とのその彼我の差は限りなく大きい。
歴史を振り返れば日本でも天皇家のなかの血みどろの争いがあったり、覇権をめぐる戦国時代もあった。それでも天皇制を標的とする反体制運動はほとんど皆無で天皇制の秩序は維持されつづけた。前王朝を根絶やしにすることを常とする中国のような易姓革命は日本にはなかった。また武士の戦いにも作法が求められるなど、そこも西欧や中国とはひと味違っていた。
われわれが使う「世の中」「世間」をまとめて「世間」と呼べば、われわれ日本人は唯一神ではなく「世間という価値」に生かされ、類い希な国をつくり維持しつづけていると言っていいのではないか。
侍ジャパンのメンバーたちの戦った相手国に対する態度もわれわれ日本人を納得させるものであった。戦う相手も同じ土俵に乗った人たちであり、その相手あっての日本チームであった。だからそれなりの敬意を払うべき人たちであった。それが侍ジャパンのメンバーの態度に表われていた。これまでもサッカー・ワールドカップ会場での日本人サポーターが試合後ゴミを集めて会場を清掃して帰ったなどということが報道されていた。外国のラグビーの試合でノーサイドになったらお互いの健闘を称え合う光景は普通にみられるが、日本ではその感性がスポーツ界以外にも広く定着しているといっていいのかもしれない。
自分たちを取り巻く世界は秩序あるものでなければならないという日本人の思いは、世界レベルでみれば単なる理想論であろう。しかし少なくとも日本人には自然に受け入れられる現実的な世界観と言っていい。
日本が「世間という価値」を根拠に倫理性の高い国をつくってきたとはいえ、それが特殊な条件下で成立したことを考えれば、その価値が格別優れているわけではない。どのような社会にも秩序を支える何らかの価値が必須であって、その価値に優劣などない。むしろ日本では世間のルールに縛られた慣習に苦しみ思うような人生を送れなかったと思っている人も少なくないだろう。世間のルールは時代にマッチした形に変えていくべきであるし、実際そういう流れはつねにある。しかしそれがわれわれの倫理観の基礎でありつづけることは揺るがない。
すでに述べたが、倫理観などというものは生まれた後の人間関係のなかで育まれるものである。それゆえ親の子供に対する躾を含む接し方が大切であることは洋の東西を問わない。誰かが見ている見ていないに拘わらずやるべきことはやる、やってはいけないことはしない、そういう倫理観は特に親の子供との付き合い方のなかで作られていくことは間違いない。大谷翔平の立ち居振る舞いを見ていると、彼の両親の彼との接し方の素晴らしさを想像させる。
これまで、没個人主義的な日本は西欧の個人主義を見習えの類いの主張が幅をきかせ、逆に今度は侍ジャパンの活躍についての海外メディアの日本に対する好意的報道に接して、だから日本は民度が高いなどと結論づけて思考停止する向きもある。外部の評判に一喜一憂するのもまた日本の宿命的な習性ともいえるが、そろそろ日本と日本以外の国々との世界を見る目の彼我の差について自前で考えてもいいのではないか。侍ジャパンの活躍はそのきっかけになると思い、以上が私なりの見解なのだがいかがであろうか。
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