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【寄稿】「信仰心ということ」

ha-shaudow(75歳・無職・大阪府)

 

 ご存じのように日本人はハロウィンを楽しみ、クリスマスケーキをほおばり、除夜の鐘の音を聞いて一年を締めくくる。
年が明けると神社に初詣をしたかと思えば、その足でお寺の山門をくぐり、神社仏閣の参拝を嬉々としてハシゴする。

 日本の神道や山岳宗教、あるいは世界の少数民族の間でも尊崇されている自然崇拝を西欧人は霊の存在を信仰するアニミズムと呼び、それらの宗教を原始的な宗教と位置付けている。
 西欧人がどう思おうと気にすることはないのだが、日本人は彼らの言説に敏感に反応し、自らの生き方を間違っていると判断し、改めようとする悪い性癖があるようだ。

 今回注目した調査は、そのあたりを明確に表してくれていると思うのだが、あなたはどう感じるだろうか。4つの設問とその回答から推察していただくことにする。

 まず最初は「あなたの生活に宗教は重要か?」の設問に対する77ヶ国の調査結果を見てみよう。
非常に重要と答えた97.3%に、やや重要と答えた2.7%を加えて100%の数字を示したのがエジプトで、国民のすべてが自分の生活に宗教は重要だと考えている。
以下、インドネシア、エチオピアと続き、17位のタジキスタンまでが90%台の高い数値を示し、その後も50位の台湾まで50%以上の国民が宗教を重要だと答えている。
 さて、日本はどうかというと、77ヶ国中の第76位で14.6%となっている。
最下位の中国の宗教事情は、憲法で信仰の自由は認められているが、政府(中国共産党)が認める礼拝所での宗教活動に限定され、宗教団体としての成長や活動範囲は統制されているため参考にならない。
つまり、「分からない」の8.5%を除いても76.9%の日本人は生活に宗教は重要ではないと答えていることになる。

 2つ目の設問は「子供に身につけさせたい性質に信仰心は重要か?」である。
1位がバングラデシュで84.9%の国民が子供の教育に信仰心は重要だと答えているが、日本は75位で(最下位はやはり中国)、4.4%の国民が重要と考え、95.6%が重要ではないと答えている。

 3つ目の設問は「あなたは神の存在を信じるか」だ。
第1位のエチオピアは99.9%の国民が神の存在を信じており、38位の北マケドニアまでが90%以上という高い数値で神の存在を疑ってはいない。
 そしてここでも日本は72位で39.5%の国民が神(仏)の存在を信じ、32.5%が神の存在を信じないと考え、残りの28.0%が分からないと答えている。
中国は当然、最下位である。

 最後、4つ目の設問は「あなたは自分を信心深いと思うか?」である。
 ここまで3つの質問に際して上位を占めていたのは、国民の多くがイスラム教を信仰している国々であった。
しかし、この設問では少々違った結果を見せている。
1位のアフリカにあるジンバブエは多くの部族が暮らす集合国家で、イスラム教徒が1%でキリスト教徒は25%、残りはそれぞれの部族の伝統宗教を信仰している。
 2位のジョージアは1991年のロシア崩壊後に生まれた国で、10%がイスラム教徒、80%以上がグルジア正教会(キリスト教)となっている。
 3位のバングラデシュは90%がイスラム教徒、残りはヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒となっており、4位のミャンマーは国民の90%が篤く仏教を信仰している。

 このように地球上には多くの宗教があり、それぞれの国民がそれぞれの国で崇められている神を信じて暮らしている。

 面白いのはロシアで、この国では1917年、初めて社会主義国家をつくったレーニンが「宗教はアヘンだ」といって宗教を否定した。
 その後、1千万人を虐殺したとされるスターリンは、第2次世界大戦時にドイツ軍からモスクワを守るため宗教の力を利用し、ロシア正教会を復活させた。
そして今、プーチン大統領はキリスト教系の「エホバの証人」や「モルモン教」などの伝道を禁じている。
このように、その時代の権力者の意向で宗教政策がコロコロと変わるロシアだが、73.8%の国民が「自分は信心深い」と答えているのは、考えさせられる結果ではないだろうか。

 さて、日本だが、全体主義国家の中国を押しのけて最も低い数値を提供している。
自分は「信心深い」が14.4%、「信心深くない」55.8%、自分は「無神論者だ」が19.1%で残りの10.7%が「分からない」となっている。
 つまり、西欧人から神に対して不誠実で信念を持っていないと言われているばかりか、日本人自らが「自分は信心深くない」あるいは「無神論者だ」と決めつけてしまっているのだ。

 何故なのだろう、何と比較して自分を信心深くないと言えるのか、無神論者だと決めつけることができるのだろうか。

 近年の小家族化でお仏壇がない家も多くあるだろうが、そこで、どなたかが亡くなれば、家具調の小さなお仏壇を購入して、亡くなられたご家族のお位牌を納めるだろう。
そして、一日のどこかでお位牌にお水やお茶、その日に焚き上げたご飯を供えて、鈴を打ち手を合わせるはずだ。

 まだ言葉も覚えておらず、一人歩きさえもままならないにもかかわらず、お仏壇の前で〝チン〟と鳴らし、〝手を合わす〟幼児の姿はどの国であっても見ることはない。

 毎月の墓参り、春秋のお彼岸に家族で先祖へお参り、また四国88ヶ寺のお遍路に代表される全国の〇〇詣りなどは、お年寄りばかりか若年層にまで人気のあるツアー会社の目玉になっている。

 しかし、他の宗教、他の国、他の民族にあっては、そうした日本人のように合掌する機会を持っていない。

中でもキリスト教社会では宗教離れが進んでおり、特に北欧を中心としたヨーロッパでは、歴史ある教会がスーパーマーケットに転売されたり、高い天井を活かしてスケボーの練習場になったり、あるいは小さな教会は住宅に改造された不動産としてチラシ案内されるなどしている。
このあたりは、かつての私のブログ(shaudowのひとりごと19『世界の宗教の現況』2017.07.13)に教会の画像もあるので見ていただきたい。

 では、何故これほどに信心深い日本民族が無神論者と思われているのか、それは、宗教という言葉の定義が違うからにほかならない。

 地球人口73億人のうちで3分の2の宗教勢力を占める一神教信者(キリスト教、イスラム教など)にとって、神と呼ばれるべきはキリスト教徒にとってイエスであり、イスラム教徒のアッラー、ユダヤ教徒のヤハウェただ一つで他に神と祀られる存在があってはならないのだ。

 従って、一神教信者にとって日本人のように多くの神を信じる人間はすべて無節操に映ってしまう。
これは彼らの多神教に対する無理解が原因なのだが、一神教を信じる彼らに多神教を理解しろというのは到底無理な話なので捨て置けばいい。

 言葉の定義の他にもう一つ節操がないと思われる原因があるが、それは英語の「religion」という言葉の捉え方にある。
「religion」はもちろん日本では「宗教」と訳されている。

 この「religion」という言葉を辞書で引くと、宗教、宗派、信仰、教会、信条などと多義的な性質をもった言葉だということが分かる。

 また、「religion」はラテン語の「religio」を語源としている。
この「religio」もまた多義的な言葉であるが、その中に「繰り返し読む」と、「強い結びつき」という代表する2つの意味がある。

 古代ローマにおける人間の血縁関係や婚姻関係の結びつきがその背景にあるのだが、そこに神を結びつけたのがアウグスティヌスであり、この頃から宗教が儀式中心から信仰中心へと変わっていったのであろう。
そしてその信仰の根本となったのが「繰り返し読む」聖書であった。

 キリスト教の聖書(旧約・新訳)、イスラム教のコーラン、ユダヤ教のタナハはそれぞれの正典とされている。
従ってそれぞれの信者は、その正典を繰り返し、繰り返し読むのが信者の務めであり、その行為を繰り返している人が信心深い人ということになる。

 ところが仏教では経典と呼ばれるものは無数にある。
日本では一切経七千余巻と呼ばれているが、これもあくまで日本だけのことで、南伝や北伝と合わせれば数限りなくある。

しかも『阿弥陀経』が「如是我聞」で始まり、『大無量寿経』が「我聞如是」で始まるようにほとんどの経典がこの言葉で物語が始まっている。

「如是我聞」つまり、「仏さまからこのようにお聞きしました」という言葉で書き出せば現代でも経典として認められる可能性があるということだ(「このように仰った」ではなく「このようにお聞きしました」と、されているのが重要である)。

 日常的に僧侶でもない限り日本人は膨大な経典を読むことはない。
そればかりか、この神社のご祭神は〇〇、このお寺のご本尊は〇〇と熟知している日本人を見かけることは珍しく、また、そんなことを気にも留めないのが日本人の現実だろう。

 そもそも宗教というものは、一神教であれ、多神教であれ、あるいはキリスト教であれ、仏教であれ、すべて同じものなのだ。

その根本は人間が生きていくうえで「しなければならないこと」「してはいけないこと」を教えるのが宗教というものであるはずなのだ。
 ただそれが、それを教える先人たちの教え方によって、あるいはプロセスによって違いが表れたに過ぎない。

釈迦やキリストの教えが弟子たちによって脚色され、学問的に難しく分析されていくその過程で、もとは同じであったものが派閥をつくり、全く違う宗教だと認識するようになり、抗争を繰り返す。

そして、現代に至ってはそれが民族間の戦争へと変化をしてしまう。

 日本では今もお仏壇と神棚が祀られている家がある。
神道と仏教は人々の生活の中で儀礼や宗教行為を分け合って共存している。
温和な地で生まれた日本人は、このような重層信仰を育て、寛容な国民性を形成していった。

 そして日本人は、インド発祥の仏教を東端の地で完成させた。
インドや中国にはない新しい救いの自覚、それは法然・親鸞による他力の救い、つまりすべてを放棄することによってこそ仏の愛に包まれるという日本独特の教義(救い)を完成させた。

 日本人は神社の祭神も知らず、お寺のご本尊もわからずお詣りしているのではない。
そこに仏(神)の絶対無条件の愛を感じ、その愛に対する感謝を示すためにお詣りをしているのだ。

神社に行くと清々しい気持ちになり、お寺に行くと温かい気持ちに包まれると感じるのはそこに究極の安らぎを感じるからではないだろうか。

 鳥居や山門をくぐるときに一礼をする人をよく見かける、
この行為は剣道や柔道をする人が道場の畳に踏み入る際に一礼する行為と同じではないのか。
茶道や書道にも同じ匂いを感じる。
ただそこに礼を尽くすという日本人の心がその行為をさせているのではないだろうか。

 そうだとすると、「religion」の日本語訳を宗教とするのは正しい訳し方ではなく、日本人の宗教観に合った言葉を見つけなくてはいけない。
そうだ「道」だ。
「宗教道」があるじゃないか。

  *

「信じる宗教は違っても、求めるものは同じ」ということをトンチで有名な室町時代の僧・一休宗純は歌に遺している。

「分け登る 麓の道は 多けれど
同じ高嶺の 月を見るかな」