公共政策に人の意志を

StudentのK(34歳・公務員・茨城県)

 

 私は公共政策の視点から本誌を拝読しているが、3月・5月号の特集は特に人の意志に重きを置いているように感じられた。

 先日、AIが上手に絵を描けるようになったことから、絵を描く仕事が奪われているというニュースを見た。確かに、単に綺麗に描くだけならばAIに軍配が上がるかもしれない。歴史を振り返れば、産業技術が発展するごとに人の仕事が奪われることは度々発生してきた。しかし我々は、どれだけ技術が発達しても、それを人が適切に扱うことで社会を発展させてきた。

 そのため、私には現在のところAIの発達については概ね問題なく、あくまでそれを扱う人次第であると捉えている。もしAIの発達が問題になるならば、おそらく情報セキュリティ・リテラシー等だろう。

 AIは上手に絵を描けるかもしれないが、AIは「なぜその絵を描いたのか?」という質問に永久に人として答えられない。現時点ではその質問に対して「その絵を描くように指示されたから」という回答が来るだろう。

 ここで、依存症批判との関連が見えてくる。「なぜあなたはそのような行動をとるのか?」「○○さんが言ったから」。このように依存症の人に対してはAIと同様のやり取りが見られるだろう。さらに言えば、AIはどこまで行ってもAIであるため、仮にこの先AIが発達して独自に絵を描けるようになったとしてもそれはAIが描いた絵でしかないように、AIの意志はAIの意志でしかない。

 従って、AIが発達した時代において我々は、「なぜあなたはそのような行動をとるのか?」という質問に対して、「それが私だから」といった、人として自立した答えを返せるようになる必要がある。これができなければ、脳を持たないゾンビのように徘徊するどころか、AIに人生をコントロールされてしまう家畜として生きるほかはないように感じられる。

 ここでようやく題名と関連付けるが、我々は社会の中で生きている以上、社会の影響を強く受け、社会によって選択できる行動の幅が決められていると見ることも出来る。そしてこの社会をつくるのに大きく影響を与えるのが公共政策である。

 私は行政を仕事にしているが、新たな政策を立案する時には取組(手段)だけでなく目的も考えることが一般的である。その目的には、「時代は○○だから」「○○さんが言っていたから」という類のものや、手段自体を目的と捉えているもの、スローガンレベルの抽象的で空虚なものが書かれることがほとんどである。

 後に述べるように、実は行政が目的を考えること自体が現行制度下ではナンセンスなものであるが、このような現状で公共政策が決定されるならば、自立せず何かに依存した空虚な社会が出来るのは必然だろう。ましてや、このままAIが行政文書を作成するようになれば、AIが社会をコントロールすることも危惧される。そのような社会で生活する人々は自立した考えを持てるだろうか。

 一方、間接民主制においては、主権者は議会を通して行政の目的を定めることが求められており、その目的とは将来実現を目指す社会の姿である。仮にこれをしっかりと行政に反映させることができれば、行政はその目的自体を考える必要がなくなり、ただ目的に従った政策を立案するだけで主権者の意図するものになるだろう。

 従って私は、今、我々主権者は、「どのような社会をつくり、どのように生きたいのか」という計画的な意志を自立的かつ具体的に抱いて議会に反映し、行政をコントロールできるかどうかが強く問われているように感じてならない。

 最後に、目的とするべき社会の姿についての私見を述べるならば、それは今まで我々がこの世界と向き合い、感じてきたことを思い返し、皆が心から暮らしたいと思えるような社会が正解であると想定して、誠実に議論を交わすことで見つけられるものであるように思う。

 つまり、人の意志とは自分の中に存在し、自分を支え、過去と未来をつなぐものであり、公共政策に人の意志を反映することとは、社会が人々の共通の意志により自立し、永続的たらんとすることである。私はそうした社会をつくりたい。これをご覧の方々はいかがだろうか。