「直す」を考え直すための素直な感想

川北貴明(33才・芸術家・大阪府)

 

 近所の小中学生を見ていると、どうやら今年も無事に新学期を迎えたようだ。学生の本分は勉強だが、今は大人や「社会人」も学びが必要だと言われている。書店で目立ついわゆる「教養本」がそれを表している。

 昨今の日本では、「学び直し」という言葉がスローガンほどではないにせよ喧伝されている。わたしは20代半ばで大学に入学し、2020年に卒業したのだが、それはどうやら「学び直し」のようだ。現にその大学では積極的に「今熱い社会人の学び直し」を宣伝しているのだが、日本の25歳以上の大学入学率は1〜2%のようである。卒業率はさらに低いとされている。その難関を潜り抜けた私としては、もう少しそれは増えてもいいじゃないかとは思う。消費税を増やしている場合ではない。

 そのバズワードと現実のあまりの乖離は、福田恆存の『保守とは何か』にある「言論の空しさ」を思い出させる。言葉の力は弱いのかもしれない。もっとも、彼が述べたように「それを承知の上で、私はやはり今までと同じ様に何かを書き、何かをして行く」という前向きさを忘却してはいけない。

 しかし、よく考えてみれば「学び直し」という表現そのものを直す必要がある。まず日本における「学び」が、大学合格のための授業や、単位をとるための講義、資格試験合格のための勉強に限定されている気味がある。学びとはもっと広いものであるはずだ。

 例えばそれらとは無関係に古典を読み、美術館に行き、ファッションの勉強をし、筋トレの動画を見たり、ドイツ語の学習をすることも学びであると私は考えている。私は接客業も行っているが、その日々の苦楽の中にも学びがある。趣味にも仕事にも学びはあるのだ。ちなみに狂言も好きだが、これって変質者の証でしょうか。元市長さん。

そして「直す」であるが、学びが限定された高校あるいは大学でのことである以上、一度学びは大人にとって「終わったもの」と認定されている。そうでなければ「直す」は使わない。直すの意味には、「もう一度やる・別の状態に変える・元の良い状態にする」がある。要するに「あの頃は椅子に座って机の前で真面目にやってたのに、今はやっていないからもう一度あの頃のように」が「直す」に現れている。

学ぶことは日々の生活を営む中で見出すもの/ことである。わざわざ「直す」を使う必要はない。趣味やビジネスあるいは偶然の出会いの中に、学びは散りばめられている。それを積極的に探すのも学びの楽しみである。よって「学び直し」は単に学びでよい。「生き直し」と言わないように、流行りの造語にとどめておくべきである。学びはゴールのないマラソンなのだ。

私は、日々保守思想を規準にして「何かを書き、何かをして行く」、漸進し継承しながら生きていきたい。そういえば、この文章を書いているのは誕生日を過ぎたところ。なので、ぜひ「祝い直し」、「プレゼントの送り直し」を強要ではなく期待……。そんな虚しい自分を「鍛え直す」かな。鍛えるでいいか。