繰り返される人為災害

北澤孝典(農業・信州支部)

 

 元旦に能登半島を襲った大地震。被害はあまりにも甚大で、世界にも大きなショックを与えている。富山県で大学生活を送った、元七尾市民の自分にとって、身近な人々が危険に晒されている現実は心痛で、一刻も早い復興を心底待ち望んでいる。

 太平洋に浮かぶ島国の我が国は、ジパングとして知られる日出る豊かな地としての反面、見るからに不安定な地形故の、自然災害との深い関わりも、歴史の運命であると思われ、衣食住など様々な文化に、その厳しさを乗り越え磨かれてきた特徴が見て取れる。

 しかしながら、能登大震災の一連の報道を見ている限り、我が国が経験してきた自然災害に対する強靭性は、残念ながら感じられない。元住民の被害妄想から申し上げているのではなく、コロナ禍や近年の国際紛争等の混乱を前にしても、国として何も必要な手を打てなかったという経験から生じる不安の表れである。

 新型コロナウィルス感染症の大流行には、各国が国の威信をかけて被害の最小化に努めており、中国はたった数日間で大病院を新設、アメリカ産のワクチンが地球上を駆け巡り、ヨーロッパ各国はロックダウンの強制と並行した経済的補償、リモート技術の開発等、為政者が責任を持って取り組んだ公共政策が施された。

 翻って我が国、権力者の強制力と責任を持って行われた独自の政策など、休校以外に私は知らない。毎日決まった時間に感染者の人数を発表する専門人に、フリップ片手にワンフレーズポリティクスに心酔する政治家。結局のところ、我が国の感染症対策は、国民の自粛と善意に委ねられたわけだ。

 中国がどのように大病院を作ったか、アメリカがどうやってワクチンを開発したか、ヨーロッパの国々がどういう意思決定で政策を立案したか、具体的な過程を私は知らない。ただ、国家という共同体が、権力と責任を持って社会政策を執り行ったことは事実であり、良し悪しは歴史が採点すれば良い。

 

 自衛隊や消防が、がれきの下の生存者を発見するニュースが広く流布され、視聴者が一喜一憂している。自衛隊は国家の安全保障、消防は各市町村における身近な防災。それでも、日本で頻発する自然災害のエキスパートであるかのように映るかも知れないが、専門外に駆り出されている、いわば借り物だ。現場の善意とでも言うべきか。

 平成の地方自治体は、企業経営のようにキャッシュフローを重視され、合併(M&A)を繰り返した。結果として、能登地域の自治体数は激減した。有事の時の避難所や配給所が自宅から遠くなるのは、優秀な公務員でなくても、容易に想像が出来たはず。

 内陸側を走る高速道路も新幹線も、地震発生翌日にはほぼ完全に復旧したが、能登半島内の交通網は、いまだに寸断された状態の所も多い。経済的合理性を最優先にして、公共交通に金儲けを求め続けてきたことと無縁ではないだろう。

 衛生面等、環境が悪化しているにもかかわらず、新たな避難所も設けられないどころか、中規模な土木工事すら行われない現実が、極寒の能登を襲っている。

 地震発生翌日の1月2日、私は、大学時代の居候先と友人宅に向かうべく、出来る限りの物資と燃料を積み、息子と能登半島に向かったが、規制緩和の恩恵でピラミッドのように聳え立つ大規模なパチンコ屋と、リモートでリアルタイムの博打が打てる公営ギャンブルに、多くの大衆が群がっている現実を目の当たりにした。

 問題は、マグニチュードが大きい自然災害でも、腐敗した政治でも、株価最優先の自由主義経済でもなく、有権者とは名ばかりの、過去や将来の社会について何ら関心を示さない大衆にあるのだと自戒した。