『カッサンドラの日記』27 選挙は独裁と相性がいい

橋本 由美

橋本 由美

『カッサンドラの日記』27 選挙は独裁と相性がいい

 

 今回の都知事選に関しては、多くの媒体に溢れんばかりの御意見が噴出していて、いまさら私の出る幕などない。無視するつもりだったが、『絶滅危惧種の江戸っ子』として、苦情のひとつも述べないのは、かえって後ろめたい気もするので、少しばかり愚痴ることにした。

 公示前から「学歴詐称問題」や「二重国籍問題」「安芸高田インフルエンサー市長の殴り込み」等々、あまり政策に関係ない話題で注目されていたが、公示日に、突如、中学生レベルの悪ふざけの掲示板が現れて、日頃は政治に関心のない全国のみなさんも、さすがに「これはないんじゃない?」と愕然とした。もう、随分前から日本人は駄目になったと言われているが、少なくとも「愕然とする」くらいの良識はあった。よかった、よかった。愕然としなかったら救いようがない。むしろ、候補者が問題だ。候補者たちに聞いてみたい。「東京に愛情を持っていますか?」「自分のために東京を利用しないで下さいね!」

 

神宮外苑問題 

 

 

 都政には重要な争点が山積している。少子化、教育、物価、災害、数え上げたらきりがない。インフラの老朽化が激しい。住宅価格の高騰も気になる。首都直下地震対策は勿論必要だが、危ないと言われている荒川や江戸川の水害対策や住民の避難対策はどうなっているのだろう。それでも『絶滅危惧種の江戸っ子』としては、「神宮外苑の再開発問題」を蒸し返したい。

 この問題の経緯を要約すれば、こういうことになる。——明治神宮は、神宮内苑の樹木管理の費用を捻出するために外苑のスポーツ施設の収入を充てているが、老朽化した施設を建て替える費用がない。ディベロッパーが建設費用を持ってくれるという話で建て替え計画が進んだ。しかし、彼らの資金を回収して利益を計上するためには商業施設やオフィスなどを誘致する高層ビルの大規模再開発が必要なのだそうだ。そこで建設に邪魔な古木の伐採の話になって反対運動が起こった。都知事選が終わったら、再び何か動き出すだろう。

 私個人としては、都内では稀少な広々とした空に、高層ビルを出現させないでほしいと思っている。タワービルは、遠くからでも欲望の塊の醜悪な姿を見せつける。献木した昔の人々の誠意は消えて、金満新興宗教の本拠地にある虚仮おどしのランドマークのようになり、この地区はキッチュな空間に変わってしまう。利益になる「土地」ばかり見つめないで、空間も大事にしてほしい。高層ビル以外の開発はできないのだろうか。小池都知事は、外苑は私有地だから行政は関与できないと、認可取り消しの意思はないらしい。

 それならばお得意の『条例』を作ったらどうだろうか。「緑地保護区」のような条例を制定して、都の予算から内苑と外苑の樹木管理に補助金を出せるようにすればいい。樹木管理の負担も軽くなるだろう。神社は宗教施設だから自治体としては支援できないというのなら、宗教法人・自治体・法人・個人など、所有者に関わりなく、一定以上の条件を満たす緑地を選定して保存できるように、補助金を出すなり固定資産税などの地方税優遇措置を考えるなり、何か方法はあるだろう。輻射熱で夏の暑さが増す人工物の多い都心(例えば山手線内とか)にある公園や寺社林や私有地で、条件を満たす緑地をすべて選定の対象にすればいい。輻射熱を増幅させる建物群を作るのではなく、緑の樹木を守るというのは、SDGsが売り物の小池都知事にぴったりの条例だと思うのだけど……。

———如何でしょう、百合子さん??「住宅の太陽光パネル設置義務化」で補助金を出したり、一極集中を加速させそうな(他県が真似したくてもできない)東京だけの「高校授業料無償化」という大判振る舞いができるんですから!「生産者緑地」というのもありますよね? プロジェクションマッピングより、断然、有意義だと思います。カイロ大学を卒業なさった才媛の実力発揮のチャンスです!

 いま、ネット上で反響が広まっているのが、都の幹部の天下り先になっている三井不動産と小池都知事の癒着をスクープした『赤旗』の記事である。築地でも選手村跡地でもタッグを組んでいた。都心の再開発(乱開発)事業で、やたらとタワービルが出現し、都民のなかには「もう、たくさん!」という声も少なくないが、都の規制を撤廃して高層ビルを建てやすくしたくらいだから、東京都とゼネコンは一心同体らしい。「緑地保護区」の条例なんて実現するわけがない。 都幹部14人 三井不天下り/選手村・外苑…知事肝煎り再開発 (jcp.or.jp)

 小池都知事は無所属で出馬しているが、自・公、連合、ゼネコン、ついでにエジプトからの応援団もあって、盤石な組織票を確保した。1期目と違って「戦う女」を演出する必要がない。「第3期小池都政」になるだろうと諦めていた有権者の注目は、「1位」ではなく、ネット上で全国的な「推し」のファンを生み出して驀進しているインフルエンサーの「2位争い」になっている。どんな媒体も「熱狂」を煽る。大手メディアをとことん利用してきた女帝と、SNSを最大限利用したインフルエンサーは、世論形成のツールの変化を顕かにした。泣きたくなるような国会の惨状を見ていた有権者は、既成政党を見放している。1位と2位の得票数は、衆議院選挙を左右するだろう。

 

「いま」「ここ」による通過儀礼 

 

 

 投票日前から当選者がわかっている選挙は、つい最近、見たことがある。そう、ロシアの大統領選挙や香港の選挙である。これらの選挙は、権力に正統性を与えるための「通過儀礼」である。投票率が低い方が、組織票を固めた者にとっては有利である。結果がわかっている選挙で、有権者が馬鹿馬鹿しくなって棄権をすれば、ますます組織票が有利になる。それでも、プーチン大統領が投票率を上げることに拘ったのは「全国民の信認」という「立派な当選結果」が必要だったからだ。東京都というマンモス都市の直接選挙は「通過儀礼」にもなるし、熱狂と喝采で盛り上がることもある。正統性さえ与えられれば、権力者はめでたく独裁者になれる。イデオロギーによる統制にしろ、ポピュラリズムのデマゴギーにしろ、独裁者は選挙によって正統性を与えられて登場する。

 いつのころからか、東京で初対面の人との挨拶に「御出身はどちらですか?」というのが普通になった。東京の住民は、本人か、親の世代で上京したという暗黙の前提があるからだ。江戸っ子の私も毎回訊かれる。「北海道です」「大阪です」「熊本です」というだけでなく、最近は「ベトナムです」「中国です」も増えた。先祖代々根を生やしているほうがマイナーな存在で、いまや『絶滅危惧種』なのである。都知事候補だって、芦屋のお嬢さんと台湾と広島県が争っている。

 地方出身者の多くは、育った故郷には愛着があるが、いま住んでいる東京には同じような愛情を持っていない。これは当然の感情で、彼らにとって都会は「ふるさと」ではないからだ。「ふるさと」の町や村の懐かしい面影が、大手ゼネコンの開発によって一変すれば寂しいと嘆くが、いま住んでいる都会の街が再開発で変化しても、便利になってよかったとしか思わない。都市にも歴史があるなんて、考えたことがない。郵便番号が出来た頃、江戸時代からの由緒ある町名は細かくて効率が悪いと、地元の反対にも拘らずほとんどが消えた。地方の秀才が集まる中央官庁のエリートたちには、江戸の町名に未練はなかった。首都の宿命である。

 私の祖先たちは、関東大震災や一夜にして10万人の命を奪った東京大空襲を経験している。小さいころ、年寄りから、隅田川に黒焦げの死体が重なって浮いていたという話を、こわごわ聞いた。隅田川を渡るとき、生まれるずっと前の情景をみんなでなんとなく共有しながら川面を眺めた。いまのお洒落なウォーターフロントを散策する人々は、そこに黒焦げの死体を想像することがあるだろうか。子供のころは、3月10日に黙祷をしたが、いまは、3月10日が何の日だか知らない人の方が多い。都会の過去は共有されない。

 彼らは、来年はアパートを移るかもしれないし、家族で別の地域のマンションに引っ越すかもしれない。進学や転勤や転職で住居を変えることもある。知事の任期が終わる4年後に、自分がどこにいるかわからない。都会の未来も共有されない。

 数年前や数年先を共有できないのだから、将来世代にとって、この街がどうなっているかなんて考えようがない。過去にどのような営みがあったかなんて、先祖がいないから知らずに過ごす。ほとんどの都民には「歴史」も「場所」もない。「関心領域」は、時間的にも空間的にも限りなく「私」だけになる。

 だから、都会の住民の関心は、おのずと「いま」「ここ」に関することだけになる。都知事選が「イベント」「フェスティバル」という一過性の興奮で終わるのが「いま」「ここ」を象徴している。「いま」のお金、「いま」の仕事、「いま」の楽しみだけで、まさに「パンとサーカス」があればそれでいい。都会は、連続性のない時間を使い捨てる場なのだ。「いま」「ここ」の関心の総和は「公共」にはなり得ない。

 

多数決が民主政治なのか? 

 

 

 そこで考えなくてはならないのが、「多数決」は信頼できるシステムなのか、ということである。学生時代から「9割の人がYESというときは、疑ってみる」ということを繰り返してきた私にとって、「民意」は相当に怪しいものに見える。勿論、すべてが怪しいわけではない。異常気象や大気汚染が困るとか、役所の対応とか、物価の上昇とか、常識的にごもっともということはたくさんある。しかし、選挙の争点の「政策」になると、簡単ではない。政策には、法律や行政の仕組みや時間的制約や財政状況やいろいろな知識が必要で、それぞれに複雑な「数字」が出てきて、よほど関心を持って勉強していないとわからないことばかりだ。勉強している人は「少数派」だ。「多数派」の一般庶民にわかるのは「減税」「物価安定」「不公平是正」などの大雑把なフレーズや、ハコものや鉄道・道路などの目に見えるものである。だから、公約も「美しく住みよい街」「お年寄りにやさしい街づくり」「子育てに寄り添う街」というような至って曖昧な題目になる。そういえば「マニュフェスト!」と大合唱したことがあるが、あれはなんだったのだろう。

 政策の具体的な話はさっぱりわからないけれど、ワンフレーズのイメージでわかったような気になって投票する。それが「多数」の「民意」になる。学級委員や自治会の役員のように、少人数のそれぞれが知り合いで「人柄」や「適性」で選べるならば多数決も有効だが、1400万人が住む大都市の東京では、流動する多数の住民が理解できる人物や満足する政策なんてあるわけがない。大都市の直接選挙は人気投票による確認でしかない。共有するものがない人々の、バラバラの「いま」「ここ」で選ばれる候補者は、「祭り」の主演役者である。

 敵を攻撃する「熱狂」は独裁政治を招く。ヒトラーの選出やトランプ現象が典型である。8年前の選挙で「戦う女」が売り物だった百合子さんも同様だ。一方で、プーチンや香港の選挙のように、選択肢のない通過儀礼に過ぎなくても、選挙結果は専制に正統性を与える。選挙は民主的な手段であるはずなのに、民衆の熱狂的な「喝采」によって選出されるか、諦めによって承認されるかという、別々の道路標識を辿っても、行き着く先には「独裁」がある。多数決というのは、それほど恐ろしい。

 時間の連続性を失うと常識がわからなくなる。瞬間瞬間で損得のスウィッチングを繰り返すとき、そこには自分しかいない。コスパやタイパは時を惜しんでいるのではなく、時の連続性を切り刻んで捨てているだけだ。常識は連続性のなかにある。都知事選の「掲示板事件」に愕然として眉を顰める人々には常識が働いている。外苑の俗悪な再開発を嫌う人々には、歴史を惜しむ気持ちがある。まだ、常識が残っているうちに——「熱狂」や「諦め」で衆愚が独裁を招かないうちに、時の奥行きを見つめて何かを学び取り、一人ひとりが賢くなる努力をするしかない。「瞬間」に弄ばれずに、じっくり腰を据える時間が必要だ。

 


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