「わかりにくい」?……それがどうした?

馬場慎一郎(愛知県・会社役員)

 

 私事に亙るが、一定数の人前で、話す機会があり「とにかく、わかり易く願います」と要請された。私は軽い戸惑いを感じた。なぜなら、話の主題は「努力と勉強の必要性に気付く」という趣旨で、聞きなれぬだろう術語や、奇抜な理屈の展開の織り込みはこちらの意図、それを受け入れ、消化する覚悟が聞き手になければ、そも、話をする意味が無い。「ついてこられぬ人に、焦慮と奮起が現れればよい」という私の言に「そこまでレベルは高くない」とのこと。「その事実をわかって貰いましょう」と答えたが、傲慢だと思われたかもしれない。のちの感想は、「わかりにくかった」というのと「自分は良いが、他の人はどうかな?」というもので、意外と後者が多かった。
 政治家、役人等の言が、よく「わかりにくい」と非難される。ジャーナリズムに登場する者が、そう言うのを聞くと、それを理解し解説するのが彼らの役目だろうと思うと共に、言外に「自分は理解できるが」という含みを感じる。
 そもそも、「わかり易いこと、簡単なこと」自体に価値は無い。人は全てを理解できるわけでも、全てに関心があるわけでもない。その故に、道々の専門家があり、政治家がある。
 簡単なことを難し気に語るのは、見栄か愚かさの表れであり、難しいことを簡略にするのは、狡猾か高慢の表れだ。難しいことは難しく、簡単なことは簡単なのだ。マスコミ、評論家、政治家達は概して簡単を好む。情報の受け手の多くは、物事を深く考える為の、努力も熱意も無いと彼らはみなしている。一方、視聴者や読者、選挙民、いわゆる大衆は、心中、自らを万能、有能と考えており、簡便な文句を幾つか脳中につめこむや、大胆にも全てがわかった気になって、「正論」を唱え始める。しかし、彼らは一般的には、無責任で、いざとなれば、「私は素人で」と言い抜ける立場も留保している。「騙された」がその際の逃げ口上だ。
 「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに…」
 よく引かれるこの言葉は、大衆相手の売文業者や演芸者には必須の戦略であろうが、難しきことを易しくした時、意義の大半が失われるような事柄もある。あるいは、伝統の型、慣習のふるまいの多くは、理屈にあわぬ、説明のつかぬ、わかりにくいことに満ちていて、時に「何やら知らぬが有り難い」ところに価値をみるという高級な態度さえ期待される。
 大衆を前に経済理論や国際関係などを責任者として論ずる立場の者も、多くを省き、論理を飛ばし、耳目に入り易くすることが必要な時があろう。さりとて、その必要に淫すれば、自らが、低調子の議論に終始して省みない典型的「大衆」と化す。これが自戒できねば、民主制下の政治家やジャーナリストは誠に卑しき存在であろう。
 一般に、わかりにくいという句には次のような含意がある。
1 難しいことを言う奴は何かごまかしている
2 大衆は、全てを、正しく理解し判断できると自任している
3 実は、大衆の理解力、判断力のレベルは低い
4 従って、大衆には教導が必要である
 つまり「わかりにくい」との非難の連発とは、自らを大衆の一員と任じているか、演芸者同様、うける為には、砂糖をまぶし、口当たりをよくして差し出せという、大衆への迎合と蔑視をないまぜにした主張である。
 能力もその気も無い者にさえ、理解と判断を求める態をとらざるを得ないのが社会運営の現実である。そこで、健全な生を全うすべき真っ当な社会を構築するには、立場に応じての自覚と決意が求められる。
 この世には、人が簡単には理解できないこと、少なくとも、努力せねば、わからぬことが沢山あるという自覚。時には、難きものを強いてでも飲み込ませる決意。
 いずれも、大義の前に必須の謙虚さといえよう。
 と、ここまで書いて、ふと思った。
 謙虚な大衆とは、形容矛盾ではないのか。