クライテリオン・サポーターズ(年間購読)最大6,000円OFF

歴史教育からみた、日本人の「改革」観

山口泰弘(東京都、34歳、サラリーマン)

 

 平成以降の日本人は、構造改革や規制改革といった改革自体を、必要なものや不可避のものであるとしているように見受けられる。そして、我が国の長い経済的停滞の原因を、こうした改革が不十分であることに求め、より改革を進めてさらには改革疲れに陥った観すらある。

 では、改革自体を当然に肯定してしまう、日本人にとっての身近な知的環境が何かといえば、それは歴史教育ではないか。歴史教育で登場するもっとも著名な「改革」といえば、享保の改革、寛政の改革、天保の改革という江戸の三大改革である。徳川綱吉、新井白石、田沼意次のそれぞれの治世も教科書で取り挙げられるものの、三大改革をより重視した扱いとなっており、改革という言葉を当然に良いものとして教育が行われていることが分かる。

 では、これら江戸の三大改革に共通する要素は何か。享保の改革は幕府財政を再建し、幕府延命に成功したとの肯定的に評価されるのに対し、完成・天保の両改革は幕府の衰退を食い止めることができなかったとして、三大改革でも更に評価は分かれる。だが、共通点は、武士階級の生活の安定のために質素倹約を徹底したことである。確かに、為政者が出費を抑えて贅沢な生活を戒めることは、庶民の税負担を軽減することになるから、権力者の徳目といえる。しかし、年貢の増収による幕府の財政再建を目指したこと、貨幣経済が拡大する当時の経済動向を踏まえない政策を実行したことで、農民者重税に苦しみ、江戸等では不況が続いたのが三大改革の時代である。

 他方、田沼意次の政治は、当時の日本では画期的な重商主義路線による幕府の増収を目指すものであり、しかも産業や蘭学等科学技術の振興に積極的に注力しており、明治時代の富国強兵路線の先駆けとなる、極めて意義深いものであった。にもかかわらず、呼称は田沼時代である。三大改革よりも一段低く扱われる新井白石による正徳の「治」に比べて、「時代」としか呼ばれず、歴史用語として極めて低い評価が滲み出ている。

 確かに、現代の我が国における構造改革は新自由主義的な傾向も強く、農民や町民の生活を統制した江戸時代の改革と全く同列には論じられない。しかし、増税による増収と政府支出削減による財政再建を目指す緊縮財政では共通している。まあ、構造改革では、新自由主義思想に基づき政府の経済への関与は控えるべきこととされているため、甲景気を実現することは重視されない傾向にあり、三大改革においても、政府の介入による経済活動の活性化が軽視される点で共通している(田沼意次が商工業を活発化させて商工業者から実質的な税収を得ようとした政策は完成・天保の改革に継承されなかった)。

 こうしてみると、緊縮財政、市場経済への政府の関与の消極性というマクロ経済運営の分野では新自由主義的構造改革は江戸時代の三大改革と類似する。新自由主義的な構造改革自体は外来思想による政策であるが、それが我が国において受容されやすい知的風土が歴史教育で整備されているのではないか。皮肉なことに、新自由主義的な構造改革こそが、我が国の思想的伝統に整合的なものとなってしまうのである。

 国民生活の安全と繁栄等を総合的に実現すべく政策を実行することは、政府の極めて重要な政策であり、それを実現する政策パッケージを改革と呼称することはあり得よう。改革という言葉自体は、本来は中立的なのだから。しかし、改革がどのようなものかのイメージが歴史教育で国民一般に刷り込まれていれば、支持される改革の内容も、緊縮財政を推進し、市場経済への政府の関与を手控えるというものになるのは十分にあり得ることである。新自由主義的な構造改革が延々と求められ、支持され、国民が改革疲れに陥るのも、残念ながら自然なことなのである。