『カッサンドラの日記』71
近代社会における「技術」を考える
橋本由美
科学技術の「進歩」は、かつて人類が自然に立ち向かうための「道具」であった。しかし現代、人工知能や遺伝子操作といった技術は、人間自身の能力を内側から「拡張」する段階へと踏み込んでいる。
「治療」と「拡張」の境界はどこにあるのか。個人の自由な選択の名の下に生命を「設計」し、完璧さを求める能力主義の果てに、私たちはいかなる社会を迎えるのか。マイケル・サンデルやオルテガの警句を引きながら、近代技術の危うさと人間のあり方を根源から問い直す。
近代はいつから始まるかという問いには自信をもって答えられないのだが、主観と客観を分けるという方法に気がついたとき、すでに近代が始まっていたと思われる。人間という認識主体の「あちら側」にあるものは客観的対象で、それらは、要素還元によって全体像を求められる「はず」で、数量化によって操作できる「はず」だと考えられるようになった。
近代は、科学の追究の結果として生み出されてきた「技術的な成果」の時代でもある。科学は真理の追究であって、それ自体は人間の「価値」に対して「中立」である。科学の成果としての技術も、それ自体は「中立」なものである。例えば、車輪を作って回すということは、それ自体に「善」も「悪」も付着しない。帆布を広げれば風を受けて動くということ自体にも「善悪」はない。ところが、技術を「どのように使うか」と考えたとき、技術は人間の「価値判断」から無縁ではなくなる。
「自然」は、人間という認識主体の外側にあった。フランシス・ベーコンが興奮気味に人類と自然とを対立させたように、自然は分解され数値化され測られることで技術の対象になった。しかし、神の創造物である人間は、少なくともダーウィンが登場するまでは特別な存在であった。
西洋は、世界観の激変を2度経験している。世界の他の地域に比べて、西洋では人間は特別な存在だという意識が強烈だった。しかし、コペルニクスが、神に与えられた場所としての「人類の住む特別な世界」を破壊してしまった。地球が動いているかいないかということよりも、自分たちの居場所が宇宙の中心であるという「特権的な場所」ではなく、単なる惑星のひとつだという「格下げ」に甘んじることになったのである。ダーウィンが破壊したのは、同じく神によって造られた人類が特別な存在であるという「特権意識」であった。それは、他の生物と同じ起源をもち、同じメカニズムで変化してきた偶然の結果のひとつであるという「格下げ」を意味した。このときから、認識主体である人間も「あちら側」の客観的対象として、要素還元と数量化の対象になった。
科学や技術と同様に、自然そのものにも「善」も「悪」もない。嵐や雷も洪水や旱魃も、自然の意思や悪意ではなく、単なる現象に過ぎない。そこに人間が関わるとき、自分たちにとって好ましい現象か、有害な現象かが問題になる。人間が自然に関わると、自然は以前の自然ではなくなる。人間の作用で自然は変化する。その変化した自然も、またひとつの自然現象として、人間の前に存在する。農耕は、自然への関与である。
耕す前の野山を「自然」だと思っていた人々から何代か後の人間にとっては、耕された田畑や里山がノスタルジックな郷愁を誘う「自然」である。人間が自然に作用し、変化した自然が人間に作用する。相互に作用しあう人間と自然の、どの時点の座標軸で世界を見るかで世界観が異なる。現代人を取り巻くいまの自然を守ることを「環境保全」というのは、過去も未来も無視して現在に固定した座標の視点での「自然」を変えずに保全するということである。人間も自然の一部である以上、両者は相互に影響し合って変化する。人間も技術も、本来「自然」と対立するものではなく、どのように共生させるかという関係にある。
そもそも技術は、「人間の能力を高める」ためのものだった。能力を高めるために道具を使う。梯子を使って「背丈」を伸ばし、望遠鏡を使って「視力」を補強し、滑車や梃を使って「腕力」を増大させる。産業革命以降の科学技術の発展は、従来の単純な道具から、科学の法則や理論と結びついた複雑な道具を利用することで、人間の能力を著しく増大させることになった。手や腕の能力を機械が増強した。脚力は車や船や鉄道といった交通機関によって拡大した。印刷技術や通信技術が視力や聴力の延長になった。そして、コンピュータは脳の能力を拡大した。人間の能力拡大は、自然に関与する力を強力にして、その力を「進歩」と言うようになった。
「進歩progress」という言葉には、人類の自信が漂っている。それは、自然を相手に営まれてきた人間の能力拡大の成果であり、多くの成果を享受することで自信をつけた。食糧を増産することも、広い地域に飲料水を供給することも可能になって、余剰生産による利益で弱者を救う福祉も進められた。それなのに、現代の人類は、技術の発展に希望だけでなく、寧ろ不安を覚えるようになっている。
不安には2つの性質があるようだ。ひとつは社会的要因で、科学技術が作り上げた社会に生じる格差や支配権力の問題である。そして、もうひとつは、技術そのものに内在する不安である。ここでは、後者に絞って考えてみる。
20世紀の終わりころから、人間そのものの能力の拡張、すなわちenhancementの研究が目立つようになってきた。有史以来、道具の使用は人間の自然に作用する能力を増強させ、産業革命もその延長上にあった。それは、人間にとって好ましいか否かを問わず、道具という外部手段の開発によって、認識主体の「あちら側」にある客観的対象の自然に作用するものだった。
しかし、能力の「拡張enhancement」は、技術の対象領域が異なる。ダーウィンによって「あちら側」の客観的対象に含まれるようになった認識主体という領域そのものの能力を「拡張」させることが目的になったのである。主に、人工知能と遺伝子操作である。
身体に装着された機械を脳に繋げて自在に操作するサイボーグや、シンギュラリティを迎えるであろうAIを人間の脳にアップロードして「超人」を造るなどという、嘗てはSFの荒唐無稽に思われたアイディアがお伽噺ではなくなってきた。また、聖域であった「生命」に関わる研究も進み、生殖技術やDNAの組み換え操作も可能になった。遺伝子への介入は、人類の進化の方向性に影響する可能性や、政治的な優生学を呼び起こす危険や、自然淘汰への抵抗がもたらす影響、といった予測不可能な未知の次元への挑戦であり、いずれも制御不能に陥る危険がある。資金調達の面で国家主導・介入、または市場での暴走もありうる。
この問題が難しいのは、人体を対象にする医療分野での研究が「治療」に関係していて、「治療」と「拡張」の線引きが曖昧な点にある。難病や事故などで苦しむ患者の救済になる「治療」のための研究を否定する人はいないだろう。しかし、「治療」と「拡張」の技術は、ほとんど同じである。治療のための学術研究費の調達が大変なのに比べて、拡張のための開発は市場に委ねることが出来、要は「儲かる」技術に転用される。わかりやすい例が「整形技術」だろう。火傷や事故などの身体の損傷を復元する技術は、戦場で負傷した兵士に欠かせない医療行為である。しかし、そのような治療の需要よりも、いまでは「美容整形」の利用者のほうが多い。美容整形は、各人がもっている「美」という生来の能力を「拡張」するものである。
「治療」は、マイナスをゼロの状態に戻すことであるが、「拡張」は、ゼロからプラスの状態にすることである。しかし、どこが個人にとってのゼロなのか、人によって認識のずれが生じる。成長ホルモンや向精神薬の摂取、筋肉増強剤による運動能力の向上など、医療行為には「拡張」に転用できるものが多い。
生殖技術という「生命」に関わる領域でも、「治療」と「拡張」が交錯する。不妊治療は、いまでは珍しくない。体外受精が始まった1970年代には「試験管ベビー」と言われ、大きなニュースになった。不妊の原因はカップルによって様々で、治療法も人工授精や卵子の凍結、非配偶者の精子や卵子の提供、代理契約出産など、技術や選択の組み合わせも増えている。
不妊治療技術の進歩は子供の欲しい夫婦にとって朗報だが、同時に厄介な問題を伴うものだった。「母」は、卵子提供者、代理出産者、養育者に分裂し、家族の絆を複雑なものにした。場合によっては、子供、夫、妻、卵子や精子や子宮の提供者を含めたトラブルの原因にもなる。更に、卵子や精子の提供者を選択できることで、卵子や精子の「商品化」も起きている。「親にとって望ましい資質」をもつ提供者を選ぶ権利は正当なものか、生まれた子供の「父親を知る権利」が契約上認められるのか、などの倫理面での問題が生じる。受精卵の着床前診断は、本来、遺伝的疾患の発見や流産の予防のための技術であるが、世界中で男女産み分けに利用されている。
こうした生殖医療に、親の意思が強く反映され、また、営利目的に利用されるようになれば、「子供」の人権は置き去りにされる。「生命」の選択や「生命」の設計は、人間の支配欲から生じる。「治療」の範囲を超えて、我が子を自分の「拡張」と捉えて思い通りの子供を誕生させることは、親の愛情ではない。親のエゴイズムである。
生命の誕生だけでなく、生命の終わりの延命治療もまた、「治療」と「拡張」の境界に悩む領域である。どちらも医療費がかかり、関係者の意思だけでなく、患者の社会的格差にも関係して来る。誕生も死も、昔は「運命」として受け入れていたことが技術開発や発展により、「選択」の問題になった。
細胞レベルより深刻なのは、遺伝子レベルでの「拡張」である。遺伝子の組み換えは、その個体だけでなく、子孫に受け継がれて人類進化の方向性を人為的に変えることに繋がる。これは、農産物の品種改良で既に行われている。豆腐のパッケージに「遺伝子組み換えの大豆」の使用の有無を明記する法律ができたのは、それを摂取した人間に与える影響を不安視する消費者のためである。遺伝子組み換えは子孫にも影響し、大豆の子孫の方向性を人間の利益に沿うように変えたことになる。
「治療」ではなく「拡張」として、人間の遺伝子に介入して「よい資質の子孫」を残そうとする発想は、優生学である。しかし、「その時代の浅はかな価値観」によって、子孫の進む方向を決定する権利は、どの時代の人間にもない。オルテガは、「私たちの時代が過去のいかなる時代よりも優れているという自惚れをもっている」ことを見抜いていて、現在の価値観を絶対視する危険性を述べている。
人間の価値観がenhancement を「決断・実行」させる。「神」を失った近代における価値観は、周囲の人間関係が決定する。一個人の価値観は、生まれながらに独自に備わっているものではなく、時代と人間関係によって形づくられる。その時代の「大衆」の価値観が関わっているのである。
自分自身の個体にのみ作用する「能力の拡張」なら、自由意志で決定してもいいと考えられるのだろうか。自分をどう作り変えても構わないという発想は、自らの個体を「所有物」と見なすことである。マイケル・ジャクソンの自己改造への執着は痛ましいものだったが、それは彼の自由意志であった。芸術家たちの薬物による精神の高揚が芸術能力を「拡張」するなら、それは自由な行為だろうか。強制でない限り、自分を「拡張」することは、個人の選択として望ましいことだろうか。「拡張」するチャンスを無駄にすることは、自らを高める努力を放棄することだろうか。
Enhancementの価値観には「完璧な人間」の理想像がある。近代における「完璧さ」は「能力の高さ」である。知的能力・身体能力・美的能力(ルッキズム)など、近代の技術が人間の能力を「拡張」することに向かっているのは、近代の価値観が能力主義にあるからではないだろうか。近代技術を象徴する人工知能と遺伝子操作は、「能力の拡張」そのものである。
「完璧さ」を求める社会が、幸せだと言えるだろうか。現代は、技術に私たちが合わせなくてはならない時代である。完璧さの基準に従った技術が、私たちの思考や行動を支配し始めている。拡張技術を利用して自己の能力を高めることが可能な社会では、それを採用しなければ「怠惰」になり、能力の低さは「自己責任」になる。能力主義の社会では、すべての責任を個人が負わなければならない。能力の低い者が、ありのままで生きることが困難になっているのが「近代」である。
能力の高い者が弱者を助けながらともに生きる責任が、ノブレス・オブリージュである。恵まれた資質を天与のものとして謙虚に受け止め、自己の能力で勝ち取ったという傲慢さを排除する。マイケル・サンデルは「福祉国家リベラリズムは、それが必要とする連帯を形づくるのにふさわしい共同体意識を生み出せない。」と言う。福祉は、国家が個人に与えるものである。能力によって地位と富を得た勝者は、国家という立場から敗者の国民を援助する。国家対個人の関係であって、「連帯」ではない。能力の「拡張」は、究極の個人主義である。
私たちが生きている時代は、人類史の終着点ではない。近代もまた、人類史の通過点である。私たちは、いまの時代が過去よりも優れていると思い込んでいるが、それは未来になってみなければわからない。「この先、行き止まり」という自滅の看板に向かって進んでいたとしても、いまの時点で、それを知ることはできない。未来に、現在の価値観が通用する保証はない。
『思想史のなかの科学』伊東俊太郎、広重徹、村上陽一郎 著 /平凡社ライブラリー /2002
『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット著 /ちくま学芸文庫 /1995
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル著 /早川書房 /2021
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