日本に軍隊は存在し得るか

磯邉精僊(27歳、福岡県)

 

1.日本における人間の在処

 我々現代人はとかく肉体というものが持つ物体としての存在感を忌む傾きが強い。肉体は反知性的である、というのはほとんど彼らの常識なのであって、暴力とは人間界における最も野蛮で恥ずべき行為と見做されている。「暴力はいけない」というのは「民主主義」や「自由」といった現代社会の巨人達のさながら子分であり、虎の威の下で無条件に是認されているのである。この現代文明人の常識が社会の至る所に浸透したのはここ十数年であり、それは日本における家庭や教育、さらには社会制度の壊死とも歩調を合わせるが、ここでは踏み込まない。むしろ問題としたいのは、なぜ現代日本人がこうまで暴力、そして肉体を憎むか、そしてその結果如何なる害を成しているかというところにある。

 これにつき、見逃せないのは「侵し難さ」の感覚である。「侵し難きもの」はかつてどこにでもあった。神仏はもとより、父や母も子にとっては侵し難く、世間然り、常識然りである。しかしながら、戦後日本人はこの「侵し難きもの」への社会一丸となった革命活動を着実に完成させてきたのである。平成も終わるにあたり、この抵抗はほとんど美しいと言えるまでの完全な勝利を獲得したと言える。現代を生きる我々はもはや如何なる侵し難さも感じていない。我々は法律さえ侵さねばよいのである。そして法律は父親ほどに厄介ではないのだ。

 ところが、この勝利というのは言ってみれば理念を欠いた単なる百姓一揆の結果であるから、そこから得られる果実というのは常に何らかの意味で毒入りなのであって、我々は既にその毒にやられて、かつて中国人が日本人を適切に評したところの「法匪」となり、我々は法を使用するものではなく、法に虐げられた奴隷に過ぎない。どのようでありたいか、ということは問題ではなく、如何なる価値判断も法に入り込む隙間はないのである。それゆえに現代社会というのはニヒリズム的と言わざるを得まい。

 然るに、このような世の中にあっては肉体というものは目障りなものである。我々は普段他者との交流を極端に希薄なものとしてやり過ごし、その安定性の中でか弱い生を暖めているが、強き肉体とは存在自体が危険なのである。諍いの無い平穏な日常はこの危険を単なる潜在的な、反法律的かつ犯罪的行為の発生可能性に矮小化し、社会にとってのある種の“エラー”に貶めているが、人間社会というものにとっては本来ありふれたものなのであって、この懸隔は実は思っている以上に大きい。街を歩いていて人とすれ違う時、酔った屈強な若者が如何なる無作法をしたとしても、それを異常という資格は現代人にだって認められないのである。

 このことを現代人はまるで自覚していないが、無意識に不快として感じ取っているのである。であるからこそ、柔らかな白い手をした現代人は、しなやかで強靭な肉体というものが許せないのだ。それは文明人たる彼らの尊厳と生活(彼らは名誉的な生き物ではないから主として後者)に対する見逃し難い挑戦である。それ故、武器を持たざる彼らは肉体を憎み、限りない侮蔑を加える。男は中性であることを強いられ、社会は色と柄を失う。相撲やプロレスは脇に追いやられ、氷の上で踊る猫のような男が喝采を浴びるのである。(勿論、古今なよやかな男を持て囃す向きはあるが、現代においてその傾向は病的に強まっている。もはやそこに対置されるべき男性性への礼讃は限りなく捨象されている)

2.自衛隊、この奇妙な存在

斯様な環境は軍人ないし自衛隊(本稿において自衛隊が軍隊であるかどうかは問題ではないので以後両者を気楽に使わせて頂く)という存在にとって極めて不利であることは言うまでもない。彼ら繁栄せる文明人にとって軍人とは一体何者であるか。それはただの知恵の遅れた、反知性的かつ反時代的人種であり、ごく簡単に、しかし正確に表現を与えるのならば、それは目障りな存在に相違あるまい。このことは現時自衛隊というものが得ている国民からの支持というものとは何の関係もない。すなわち、「自衛隊に対して好感を持ち、応援している」というその人の中にもこの事実は存するのである。それほどに時代は人を内部より侵蝕している。

 これに対しては異論もあろうが、現に自衛隊が国民に対して極めて低姿勢であることからも、国民が彼らに対して如何なる無言の要求をしているかが知れる。自衛隊というのはいまだ国家の、そして国民の軍隊ではないのである。自衛隊は国民の傭兵なのであって、それがひとたびその本性上の暴力性を垣間見せたならば、国民がいかなる態度をとるのか、自衛隊というのはそれがいやというほどわかるからこそあれほどまでに自らの存在を隠すのであろう。(地方において事情は若干異なるが、都市部、とりわけ東京において自衛隊の存在というものは完全に隠匿されている。これはいかなる諸外国でも見られない現象である)

 このように、自衛隊というのはその国防という任務の性質上、強き存在であることを要求されながら、同時に国民にとって侵し難き強さを持つな、という要請にも曝されているのである。しかしながら、自衛隊というものが相対しているものは一体何であるか。大陸人種の兵隊の分厚い筋肉に対して、如何に日本人の体躯というものが貧弱であるか。日本人は本来国軍たるべき自衛官に対して肉体的降伏を求めるが、その外側に我々の平和を脅かすものとして存在しているものはそんな自衛隊、矮小なアジア人種たる日本人が構成する自衛官よりも遥かに肉体的優越を誇る暴力性の塊なのである。

 戦後日本人は自衛隊に国防を担わせておきながら、「文民統制」という名の下にその牙を抜くことに精を出してきた。しかしながら、それで得られるのは「文民統制」などでは決してなく、単なる「軍人の文民化」に過ぎない。文民で国防の任に足るのであれば、端から軍隊など不要である。畢竟、我々日本人は自衛隊、或いは軍隊というものをまるで咀嚼できていないのである。そこに「憲法解釈」などといった得体のしれない薬でやり過ごそうとしてきたのだから、結局のところ腹を下すのである。

 然るに、軍人というものは本来名誉的生き物なのである。それは、国難に臨んでは己が命をも捨てねばならぬのだから当然である。誰も金の為には死なないのである。彼らをして死地をも厭わず往かしむるものは直接には様々あろうが、全てに通底するのは名誉でなければならない。その名誉というものが現時の自衛隊に対して認められていると言えるのか。

 現実には、自衛隊というのは実に哀れなものであって、卑近な事で言えば都市部の多くの地域では制服通勤が認められていないのである。地方であっても、制服で店に入ることは憚られている。また、災害派遣に行って寝ずに作業をし、交代してラーメン屋に入れば、被災地でラーメンなど食っていると通報された挙句に当の隊員は処分されたそうである。そのような仕打ちをしておいて、いざとなれば国民と国家の為に命を張って戦え、という資格がいったい我々にあるのか。

 自衛隊というものに限らず、いかなる国においても国民国家の成立以後、国軍というのは国家国民と一心同体であり、兵は即ち国民であり、国民は即ち兵である。それは徴兵制の有無とは何ら関わりがないのであり、日本のような兵を徴せざる国にあっても、その性格に何らの変りはない。むしろ、好むと好まざるとに関わらず兵を取る国に比して、全志願制である我が国においてはより深刻な形で国民の国防意識が兵の強弱に反映されると考えてよかろう。

 それにもかかわらず、国民の依って立つ規範であるべき憲法の中に明確な根拠を持たず、むしろ常識をもって読めば憲法違反としか言いようがない自衛隊という組織をそのままにしておいて、一体この国をどのように守ろうと言うのか。現今の改憲議論の見当違いや出鱈目はともかく、この米国製急造憲法を根拠に国防へと若者を駆り立てるのになんの躊躇いもないようではいけない。我々が真に先の大戦の惨禍を反省するのであれば、成すべきは戦力の曖昧化ではなく、その正当で、国家の道義に適った運用に注意が向けられなければならない。

3.日本に軍隊は存在し得るか

 坂口安吾は次のように述べている、すなわち、「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らざる心情は規約とは逆なものである。」(『堕落論』)。この指弾は悔しいけれども平均的日本人の気質の偽れぬ現実なのであり、日本人は、少なくとも四民平等の明治以降にあっては戦闘的であるのとはおよそ対照的な民族と言えよう。そのような国が東アジアという米中二大強国の接触域にあってどのように生くべきか。これは今一度、我々が国民としてよく考えねばならない。

 これにつき、自衛隊を強化せねばならない、という回答は不適である。何故ならば、日本には現状軍隊は存在しえないからである。それは何もあの憲法が「Article.9」によって戦力の保持を禁じているからではない。日本人が肉体、そして物質的力そのものを拒絶しているからである。国民性というのは現代においては等閑視されがちであるけれども、それは確かに存在するのであり、日本における男性的要素の迫害は諸外国に比べても急進的である。自衛隊がどうのという話ではなく、軍隊というもの、否、力それ自体が忌避されてしまっているのである。この解消は憲法をいじったくらいで達成されるものでは到底あるまい。仮に憲法が自衛隊の存在を保障したところで、この国民に広く浸透した肌感覚は消えようがないのである。

 つまるところ、現今の状況を鑑みれば、我が国に軍隊というのは存在する余地はないのである。保守派が如何に自衛隊の肩を持っても、その自衛隊というのは一体何者であるのか。彼らは国民そのものなのである。そして、彼らは国民の美徳も悪徳も同じ様に備えているのである。その悪徳栄える中で憲法を、そして組織をいくら変えてみたところでこの国に軍隊は生まれようはずがない。国を守る力としての軍隊が生まれる為には、国民の中に確固たる国防意識と、それを支える雄々しさがなければなるまい。然るに、国防意識など大衆にあっては副次的なものである。あれだけの敢闘精神を発露させた先の大戦下において、果たして全国民のうちに積極的国防精神が存在したか。否である。苦痛の中で顔を上げる高貴な精神は普く存在し得るものではない、それは精神における英雄のみが持ちうるものだ。我々がかつて誇った将軍達は、それこそ巣鴨と市ヶ谷を「尚生に恋恋として」(『堕落論』)通ったのであるし、我々はそれを道徳的に非難し得るものではない。

 然るに、望むべきは個人による理知的自覚たる国防意識などではなく、雄々しさそのものである。軍隊を成り立たせるものは憲法などでは有り得ない。それはどんな形をとるのかはわからない。「畜生、やられてたまるか!」かもしれないし、「なめられてたまるか!」でも有り得る。「天子さまが困ってるんならおらも戦うべ」なんて奇特なものもあるかもしれない。いずれにせよ、軍隊が依拠するのは国民における斯様な態度に他ならない。昨今の安全保障論議はその立脚地を見失ってはいないか。

 畢竟、憲法をいじって国防軍を作り、米国から最新鋭の武器やら装備やら仕入れたところで、案山子に鉄砲を持たせて戦さは出来ないものである。自衛隊が案山子というつもりはないが、彼らとて国民が運命を共にする覚悟なしには戦えないのである。あの勇敢な特攻隊員をして死への跳躍を可能としたのは、「我に続くものを信じて」の一念である。自衛隊とて同じであろう。否、軍人であるならば皆、それを信じねば自らの命など捨てられようはずがない。それを思えば現時我々が試みているものはやはり案山子に鉄砲を持たせる愚ではないだろうか。