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話せば、わかる……か?

馬場慎一郎(会社役員、愛知県)

 

 意見対立が、破壊的な実力行使や、決定的な社会の亀裂に至らぬ為には、対話を通した相互理解が重要とさる。いわく、話せばわかる…。そうかもしれぬが、解ったゆえに許せない、解ったところで仕方ない、解らぬ方が良い、等ということもある。「奴とだけは解り合いたくない」ことだってある。互いに深く知ることが、不仲の早道にもなることを、多くの男女が日々、実証している。だからこそ、人の世には、礼儀と演技が、あるいは、敬して遠ざける為の境界などが存在する。

 対立する意見の間を調整する為に、人は昔から対話をしてきた。これが有効である為には、双方が、初めの主張の少なくとも一部を変えることに同意できなくてはならない。人が自らの意見を変えても一致するには、双方に共通の守るべきもの(義)が必要だ。話せばわかるとは、共有の義があり、それに対して各々がどう関わるかが、話す内に認め合えるということだ。

 国民の権利を重んじる者と、人類一般の権利を第一する者が対話を重ねても、理解はともかく一致は難しい。逆に言えば、共有の義が不在の話合いは、不毛、時には対立を先鋭化させる。にも拘わらず、社会の主流を占める、話し合いの重視は、「人は皆同じ、究極において価値観は一致する」というナイーブな(従って時に傲慢な)信条に由来する。人は誰でも平和を、生命を大切にすると思い込む人は、聖なるものに命を賭す戦士の心情に同意できない。

 「和をもって尊しとなす」は、我国の人が好む言葉だが、さて、和とは何か。そこには「関係者全員が一致を重んずる」という意味と共に「関係者」とは一致できる可能性のある者に限るという含意が感じられる。

 歴史的には「大陸や半島の者ではない我々」、「彼らとは違う我々」の存在が前提としてある。ひょっとしたら、この場合の和とは、「倭国」自体を意味し、この有名な条文全体としては「彼らとは違う我らの国を、最も尊いものとみなす」という、ジャパン・ファースト宣言だったかもしれない。

 ミサイルの照準を我国に向け、日々、我国領海を犯す者達との間に、対立が生じる。歴史的事件を巡り、その有無と評価が相容れず、今日の利害に影響する。そんな時、待ってましたと「専門家」「識者」が登場する。どちらかに明確に肩入れする少数者は別として、「公平な立場」で賢者めいた言動を生業とする者は、大体、次のように論じる。

1、対立する両者の主張を並べる
2、その主張が生じた経緯を紹介し、相互理解が必要と述べる
3、相手を拒否し、攻撃するより、対話を重ね、相互を知り、解決の為の知恵を出せと諭す
4、今後も注意深く見守っていきたい、としめる

 多くの場合、真っ当な知性とある程度のデータがあれば、討議のシミュレーションも、相手の理解も、妥当と思える解決のための知恵も、自分一人で準備できるはずだが、それらは表明されず、対話が勧められる。解決策よりも、話合い自体が重要といわんばかりだ。そこでは理解すればするほど対立し、時には憎しみさえ増すという、日々、多くの男女間で確認され直している処世訓さえ無視されている。正義は必ずしも勝利しない。対話のみで正義を貫けることなどまずない。にも拘わらず、話合いを勧めるのは、思考停止か、現状維持の目論見、もしくは暗黙の利敵行為のいずれかだ。

 義が通らぬ時、理を尽くしても一致できぬ時、処世の知恵なら利に訴える。一線の対応責任者が、俗っぽく見えがちなのはそのせいだ。一方、当事者でない政治家や、知識人は、国政上の懸案も、国際上の摩擦も、「人類共通の理想」という架空の義や理で押し切ろうという、怠惰な、もしくは子供じみた主張をする。なべて、彼らは、その理想主義的言動、話せばわかる式の主張に反し、事もなく時が過ぎるのを望む現状(固定)主義者か、個人的利害を追求する現状(利得)主義者だ。危機に直面するとき言動の価値が見えてくる。