NHKから国民を守る党(N国党)の立花孝志・参議院議員が、東京MXテレビの番組でマツコ・デラックス氏に批判されたことに腹を立て、「マツコ・デラックスをぶっ壊〜す!」の掛け声とともに抗議のYouTube動画を何本も投稿し、MXテレビ前にも押しかけるなどして、マツコ氏の降板、自身の出演、スポンサー商品の不買などを訴えるという騒ぎが先日ありました。
(MXテレビ前でも「ぶっ壊〜す」と叫んでいたかどうかは忘れましたが。)
このN国党現象というのは、あまり長続きはしないように思いますが、どういう意味を持つと見るべきなのか少し考えてみたいと思います。
N国党の党是である「NHKのスクランブル放送化」については、私は公共放送の地位を奪うよりもその価値を高めるべきだと思うので今ひとつ良案であるとは思えませんが、議論することの意義は理解できます。一方、立花氏は「直接民主主義」の実現を以前から訴えていて、NHK問題を除けばこれが彼のほとんど唯一の政治信条だと思うのですが、こちらの方がN国党の性質をよく象徴しているとともに、遥かに慎重な議論を要するテーマです。
結論から言うと、私は間接民主制下での討議を通じた意見の集約・調整・変容のプロセスが重要であると思うので賛成できませんし、彼の語る直接民主主義論は政治理論としてはおもちゃみたいな出来のもので、平成という時代にありきたりなものとなった個人主義、改革主義、既得権批判の気分を、今さら大発見のような装いで繰り返しているに過ぎないという印象です。少なくとも、彼の動画チャンネルを見る限りは。
いわゆる単一争点政治(single issue politics)で議席を取って広範な権力を手にしてしまうことにも問題はあるでしょうが、他の政治勢力も特定の政策にある程度フォーカスしている点では同じなので、注意を払うべきは「どのような政治思想に方向づけられているのか」でしょう。もちろんそれが見えにくいのも単一争点政党の問題ですし、丸山穂高氏を入党させる経緯をみても思想や理念とは基本的に無縁かも知れないのですが、直接民主主義を掲げているところ、そして既得権批判に力点を置いているところに着目すれば、彼らも「平成の時代の空気」を色濃く体現する政治勢力なのだなということが見て取れます。
念のため言っておくと、立花氏がまず手がけようとしているのは、N国党の党員をたくさん募った上で、党員がインターネット投票を通じて意見を表明し、そこにおける多数決にしたがって同党所属の議員が議会での議決に参加するというもののようです。ちなみに、だからこそ、NHK問題を除いては所属議員が政治理念を共有する必要はないという考え方らしい。つまり、彼が目下のところ唱えている改革は、我が国の政治制度を全面的に作り変えようというような話ではないのですが、「政治家の多数決から国民の多数決へ」といった物言いに表れる政治理念の方向性は、やはり典型的な意味で直接民主主義風です。
バラバラの個人をインターネットでつなぎ、直接的に意思決定に参加させるのが真の意味で民主主義的なのだという主張は、もちろんN国党の専売特許ではありません。ラディカルな個人主義を説く民主主義論は古くから存在しますし、とりわけ社会的紐帯が弛緩しインターネットの全面的普及をみた平成という時代にあっては、世間の空気が総体としてそんなものだったと言うべきでしょう。
しかし、中間集団の存在や階層的な決定プロセスが社会を慎重かつ賢明にするのだということは、古代ギリシア以来の民主主義の歴史からも、たとえばトクヴィルに代表されるような近代政治思想の伝統からも、そして我々が企業などで携わる日々の組織運営の経験からも、ほとんど自明です。インターネットを使った直接民主主義などは、実現したところで炎上や煽動、そしていわゆる多数者の専制によって、地獄のような腐敗と混乱をもたらすに決まっています。
ところで、他人の弱みを見つけては執拗に攻撃するという立花氏の言動スタイルは受け付け難いものがあり(と言いながら私は、彼が政治家になったり垢BANされたりするより随分前から一度や二度ならず彼の動画を見ていたのですが)、先日のマツコ・デラックス氏への攻撃も品のないものだと思うものの、彼が「マツコ氏は権力の代弁者だ」という言い方で批判していた点は少し注目に値すると思いました。
というのも、私はどちらかと言えばマツコ氏の所感に同意しますし、マツコ氏がテレビでN国党の批判をするのが立花氏の言うように「放送法4条違反」であるとも思えないのですが、マスメディアを通じたタレントの発言というのは、これもそれなりに大きな「権力」であることは間違いないからです。立花氏は後の動画で、「正確にいうとマツコ氏にあるのは『影響力』であって『権力』ではない」と言い直していましたが、政治家は大衆の人気を必要としていて、メディアがそれに大きな影響力を与えられるのですから、権力の代弁者どころか源泉に近いとでも言うべきでしょう。
ただ、私はここでマスコミ批判がしたいわけではありません。国会議員が体現しているような古典的で分かりやすい意味の「国家権力」や、その動向を大きく左右する「マスコミ権力」については、十分ではないにせよそれなりに、慎重で秩序だった振る舞いを求めるルールや習慣が積み重ねられてきたように思います。少なくとも、その努力は続けられてきた。
一方、インターネットというのはほとんど無秩序のままに放置された空間であって、炎上・脅迫・デマなど何でもありな上に、いよいよYouTuberを比例区で国会に送り込める程度にはリアルな権力性を持ち始めたわけです。この権力性にどのようにして秩序を与えることができるのか、我々にはまだよく分かっていません。確実に言えるのは、それが「直接民主主義」と親和性が高いということ、そして「炎上芸」に長けた者が小さくない力を持つ舞台であるということぐらいですが、いずれにしても平成的な枠組みであって、それを体現する政治家の第一号が立花氏なのでしょう。
立花氏がMXテレビ前でマツコ氏を罵倒する姿をみて不快感を持った人は多いようですが、マツコ氏とテレビ局も相当な権力を有するのである以上、あれを「国会議員という権力者が市井の弱者をイジメている」という構図で問題視するのは正確ではないと思います。むしろ、あの騒ぎに危うさを見るとすれば、それがきわめて「インターネット的」で「平成的」な枠組みによって生み出された、統制のききにくい力の現れだからであり、これは立花氏やN国党だけを責めて何とかなるものでもありません。恐らく、「短命な厄介者」を次々に生み出すのがインターネットの本質であり、仮にN国党が文春砲に斃れたとしても状況は変わらないでしょう。
似たような意味で、愛知県で開かれた「表現の不自由展」という芸術展覧会が中止に追い込まれた件についても、表現の自由や検閲がどうのこうのというよりは、インターネットが無秩序でつかみどころのない権力性を育んできたことの問題だろうと思うのですが、長くなってしまったので今回は詳論するのをやめておきます。(一言だけ言っておくと、ポストモダン派の方々は「無記名的な権力」の理不尽な振る舞いを分析するのがかつての生業だったのだから、今こそ、理論家としてインターネット的なるものとの対決に乗り出す時ではないでしょうか。)
N国党が大きなものに育つことはないかも知れませんが、無遠慮な厄介者であることをあえて売りにするような人々が政治の場に送り込まれるケースは増え続けると思います。インターネットの時代にいかにして社会が「自己統治」され得るのか、というよりも我々の社会は自己統治能力を日に日に低下させているのではないかという問題意識は、持ち続ける必要があります。
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コメント
川端さんは幻想を持っているのかもしれませんが、ハーバーマス・アーレント的な「熟議」を通じた「民主主義」はもはや機能してないのですよ。こんなこと国会の議論を見てたら分かるじゃないですか。
勿論、川端さんの身の回りでは「熟議」に基づく、物事の「正しい」決定がなされているのかもしれませんが、世間の多くの議論の場ではそういうことは起こってないのです。ではどうすれば良いのか。
一つは、東浩紀がかつての言ったようなアーキテクチャーの導入です。これは国民の情動を単語レベルでスクリーンに映し出し、議論の方向付けを行うというものです。勿論、このアーキテクチャは議題自体を国会議員が決定するという前提のもと、その議論の方向性がぶれないように国民の情動を可視化し、絶えずフィードバックする役割を担うに過ぎません。しかし、このシステムを導入すれば、今よりは不毛な議論が減るのではないかと思います。
例え、インターネットを使える川端さんが政党を作り、炎上を演出しても市議すら送り込めないだろうし、国会議員はまず無理だろう。自分が絶対にできないことを立花がやっているという強い嫉妬心みたいなものが川端さんにあるのを感じますね。インターネット使えても議員になれない人いっぱいいますよ。。インターネット使って炎上させれば議員を送り込める??んなわけない。そんな簡単なもんじゃない。
立花氏の場合、数学や統計が大得意で、パチスロで培ったノウハウも駆使して選挙システムにハッキングをしかけてる。NHK集金人撃退シールを大量に配り、実際に被害者を助けて回ること。撃退シールは常に選挙ポスターが掲示されているようなもの。最も重要なのは自分のためよりも被害者のためを常に考えて動く姿勢でしょう。暴力的な悪の力を使ってでも凶悪な集金人から守ってくれる。小利口の川端さんなんか被害者救済のために何もしてくれてないでしょうたぶん。人々の信頼がなければただ炎上を起こしただけでは頭のおかしいそこらのユーチューバーと変わらんでしょ??視野が狭く幼稚だな~と思いました。
川端さんの意見も分かりますが自分は違う考えを持っています
ちょっと前の藤井先生の信は時に悪の暴走を持たらすのですというエントリーで
日本人の新聞に対する信頼度の高さを批評してますがあれは逆にいうとメディアに飼いならされてる日本人というかメディアが右と言えば右向くし左といえば左に向くというマスメディアの意見や考えで行動も考えも決まってしまう危うさをはらんでて、この国はメディアの力が強すぎると思います。政治家も一般国民もメディアがこう言ってるんだからこうするべきだこうだよねという考えが非常に多いと感じます。だからこそN国党現象はメディアから解放されるメディアの影響力を弱めて
メディアに左右されない価値観というか社会を作っていく事も大事じゃないでしょうか
立花もそうやけど権力批判をする人達って元々権力側に飼われてた人達多くネw
NHK.官僚…そもそも権力大好きな人達。って言うか権力の物差しでしか考えられないんでしょw 権力に見放された(裏切られた)だから今度は自分が権力を持って叩くんだ…これも依存から来る反動に過ぎず。 戦後日本と同じ構図。日本の狂ったサヨク思考。左翼でも何でもないただの独りよがりの怨みぶし。御隣の国と瓜二つ。
それと立花は「一人一票はおかしい。バカとカシコ(賢い人)が同じ一票ではなく勉強した偉い人には複数の票を与えるべきだ。」っと…だとすれば立花に投票権がなくなる…事になるかもしれませんがそれはさておき「弱者を守る」とバカ丸出しの公言を唄っている事と矛盾するのでは?w 「NHKをぶっ潰す」と矛盾するのでは?w ところでカシコを何の物差しで計るの?w コイツの思想は権威主義そのものよ。