人間はどんなに老いても他の動物に喰われない。カマキリや 蜘蛛、鮭や鱒、また一部の有袋類のように生殖や繁殖を機に相方に喰われたり、野垂れて海川 や土の滋養となることもほとんどない。
まして、老いて捕食者に襲われ、その直接的なエネル ギー源となることもない。
食物連鎖の環から飛び出してしまったこと。それは一体何を意味するのだろうか。また、私たちの心理にどんな影響を与えるのだろうか。
それは、おそらく死(喰われるこ とや、野垂れること)が根源的にもつ価値を忘却させるのではないだろうか。
自然界ではある個体の死は別の個体の生を支えている。
ライオンに喰われたインパラはライオン一族の生を支え、 秋に色づき、地に落ち、朽ちゆく一葉は、次世代の若芽を育む土壌のひとつとなり、産卵遡上で母川に回帰した鮭は、熊や鳥に喰われ、その骸は川や岸辺の植物に滋養をあたえてゆく。
つまり、死とは本来、生に向かって開かれているものなのだ。換言すれば、私的な出来事の極致にみえる個体の死というものは、他者を生かすという意味で公的な現象なのである。
ところが我々は、主体と客体という二元論にもとづく科学的な認識と、それがもたらす様々な恩恵と引き換えに、死の実存を失ったばかりか、逆説的ではあるが、死の本質に対する認識さえ失ってしまっている。
さらに、増え過ぎた頂点捕食者としての存在矛盾を抱えながら、連鎖ピラミッドの頂きから溢れ落ち、ピラミッドの外部に半ば、閉鎖系のような食糧生産・供給システムを構築している。
かくして私たちは「遺体」すなわち、「死体」と見做すような近代合理主義的な酷薄を身につけ、
葬儀の略式化(藤井編集長も週刊ラジオ「表現者」で言及されてましたね。)をはかりながら、社会的な存在であったはずの故人から公共性を剝ぎとって私人化し、死を無きものへと近づけていく。
一方、自らの死期に際し は、公としての使命を剝奪された孤独で、閉鎖的で、荒涼たる「死」の風景を目のあたりにして狼狽する。
魂の還りつく場所が見えず、同化する歓びを感知できず、自己が他者に抱かれるように眠りにつく安寧をイメージできないでいる。
ゆたかさとは何か? 生をまっとうするとはどんなことだったのか? 失っ た荷物には何が入っていたのか?
それらを思いだせないまま、私的な死を甘受しようとしているのである。
たとえば、物心ついてから半世紀以上も近代の側で息をしてきた私は、果たして老境に至るまでの時間(十年ほどか?)を使って、自らの死を他者の活き活きとした生へと繋ぐ準備をととのえることができるのだろうか。
喰われる怖れを、喰わせる歓びに置きかえることができるのだろうか。黙って横たわり、次代の生命の懐となる、森の倒木ほどの役割さえ果たすことができないのではないだろうか。どうにも心もとない思いである。
たしかに生は有限であり、肉体はいずれ、雲散霧消していくものである。
しかし、自らの遺 伝子では繋ぐことができない何かを、他者へと繋ぐためにこそ、私たちの人生はあるのかもしれない。
たとえわずかでもそ れを成し得たら、きっと胸を張って死地に赴くことができるのだろう。心に再び、堂々たる死、を漲らせることもできるのだろう。
西部氏の死から一年あまり。朧げながら死の意味が見えはじめてきた私は今、そんなことを考えている。
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