節度と社会

山田一郎(46歳、神奈川県、公務員)

 

 正しいことをしているのに、なぜか社会が窮屈で、良いことをしているのに、なぜか社会が息苦しい。そんな状況に、今の社会は直面しているように思われる。

 正しいことをしよう、良いことをしようと、様々な決まり事が作られる。一見すれば、これは「正しいこと」「良いこと」のように思われる。しかし裏を返せば、これは「正しいこと」「良いこと」がなされていないがために、行われていることなのではないか。

 乱れている学校ほど校則が多いように、乱れている社会ほど決まり事が多い。本来、自生的に作られるべき秩序が、作られていないからだ。

 「ルールを破る」「マナーが悪い」「モラルが低い」というのは、いずれも社会の秩序にとってよろしくないことであるが、一つめより二つめ、二つめより三つめの方が、実は事態はより深刻である。

 「モラル」などといえば、何をこの自由の時代に堅苦しいことを、と言われそうな世の中だ。最低限「ルール」を守ればいい、だからその「ルール」を明確にすべきだ、ということで、様々な「ルール」が作られる。そして、まことしやかにそうした「ルール」を持った正しい良い社会であることを示そうとする。あとはそれに少々の努力義務としての「マナー」を添えておけばいい、といった状況だ。この状況が、社会を窮屈にし、社会を息苦しくしている。

 本来、社会の秩序というものは、こうしたものではないはずだ。各々がモラルを持つことで、それが人への配慮としてのマナーとなり、そして共同体の規範としてのルールにもなる。出発点が、各々のモラルであれば、窮屈でもないし、息苦しくもない。

 モラルは何も堅苦しいものではない。せいぜい、「はめも外すが、えりも正す」といった「節度」が持てればよい。どこかで自らブレーキをかけられる社会、それが本当の意味で自由な社会になるのではないだろうか。了