『無常といふ事』を読んで

小町(19歳・家事手伝い・関西支部)

 

文学者の先生と手紙のやりとりの中で、それは私にとって本当にありがたいご縁で、先生は今の私の身の丈に合った、ちょっと背伸びをすれば手が届きそうな本を紹介してくださったり、私が記した文化への考えを広げて、一層深い考え方、助言をしてくださったりと、お忙しいなか丁寧なお返事を送っていただき、私はいつも嬉しく、勉強させていただきながらそのお手紙を拝読しています。

文学のこと、芸術のこと、生活のこと、色々なことに造詣の深い先生に、小林秀雄さんの本を読んでみたいということをお話ししたところ、『無常といふ事』をすすめていただき、早速その本を読みました。

わずか数ページ。

私はこの随筆を読むのにさほどの時間を要しませんでした。

読み終えて「本文僅か数ページですが、中世日本から現代まで、連綿と続く何かを感じ取ってみてください」という先生の言葉が頭に浮かびました。

たしかに、この随筆から私は何かを感じていました。が、私が感じた「何か」とは一体何なのか。その姿、輪郭を探してみたくて、ふたたび、みたび……冒頭に戻り、何度も読み返しました。そうして読み返すうち、この短い随筆のほうから私が感じていた「何か」の姿、輪郭をあらわしてくれました。

その時、私はようやくこの随筆を「読む」ことができたと感じました。

「無常といふ事」が発表されたのは昭和十七年。発表されて八十余年のときを経た今、この瞬間にまで「連綿と続く何か」がこの文章にはたしかにあり、むしろ、令和五年の今読めばこそ、その「何か」の形がよく見えて来るようにも思われました。

小さい頃、私は古いものが好きで、祖父母に連れられて歴史の跡を訪ねることが多々ありました。

旧家の庭園や古い器、木箱に入った書状の筆跡、幼いながら、そういうものに何かを感じさせられ、惹きつけられていました。そういうものを前にしたとき、私が喋れるようなことは何もなく、ただ黙ってそのものに吸い込まれ、この庭を誰がどんな想いで眺めたのか、この器は賑やかな宴の席にも同じ姿であったのかもしれない、月明かりの清かな夜、蝋燭に火を灯して筆をとったのだろう。などと一人想いを巡らすのでした。

そこには、小林さんが「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という、そういうものがありました。

幼いために「解釈」を持たなかった私は、幸運にも、その美しさに吸い寄せられました。大人の目から見れば、羨ましいくらい無分別に、自由に。

私にとって必要だったことは、何年にその庭が作られた、その器の種類、書状に何々と書いてある、そういうものではなく、そのものに出会ったその瞬間の感動、心の揺れるおもい、ただそれだけだったのではないかと思います。

「生きている人間などというのは、どうにも仕方のない代物だな。・・・其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

小林さんのこの文章と、最近読んだ、円地文子さんが現代語訳された源氏物語の序章に書かれていた

「・・・私どもの生きている世界が1970年代の日本であってみれば、現実を潜り抜けてくる光線も音響もその他すべてのメカニズムは王朝読者の読んだ『源氏物語』と異なるものであるのは当然すぎる事実である。古典とは、そういう各々の時代の烈しい変貌に耐えて、逆にその変貌の中から新しい血を吸い上げ、若返ってゆく不死鳥でなければならない。」

という言葉が私の頭の中で響き合いました。

古いものが良いと決めつけているのでも、古いものに真実があると思っているのでもありません。

そうではなく、死んでなお、はっきりとしっかりと形が見えてくる人、時代の変貌に耐えてますます若々しく輝くもの、そういう人やものに、常なるものが宿っている、包まれているのではないかと私も思うのです。

「僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。・・・多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶でいっぱいにしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。」

私たちは、今、情報の荒波にさらわれ、何千年と培ってきた豊穣な大地から、この足を引き離されそうになっています。

最近話題になっているAIのこともそうです。流行病のこともそうです。

直感、直観で判断したと思っていることすら、知らず知らずのうちに情報や、そこから身についた知識による判断であることは少なくありません。私たちは、空を見上げ、風の匂いを感じるより前に、天気予報をたよりにその日の服装を決めたり、持ち物を決めたりします。見上げれば、誰の上にも空はあるのに、手のひらのなかの小さな画面を俯きがちに見ているのが、現代の私たちです。

情報が飛び交う世の中で、私を錯覚へと導く情報や知識は数多あります。

そうして生きていくうち、私たちは心を虚しくし、何も思い出せず、何も感じられなくなっていくのかもしれません。

一見すると不確かなように思われて、けれど本当に確かなものは、記憶でも知識でもAIによる情報でもなく、心の動き、想いなのだと思います。

心が揺らぎ、ときめき、響き合うことこそ「常なるもの」なのだと、ありふれた、されど、どんな道にも通じることをこの文章に気づかせてもらえました。そう気づけば、情報や知識を恐れ過ぎたり、頼り過ぎたりすることなく、程よい距離を保ちながら上手く付き合っていけそうな気がします。

解釈を拒絶し、動じないものだけが美しいのならば、私たちの心にもその美しいものは秘められているはずです。

「無常といふ事」は終始、その秘められているものを私に教えてくれました。そしてこれからも、いつも新しい姿で、若々しく輝きながら、私にたくさんの気づきを与えて続けてくれる、そんな予感がしています。