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「風」と「風邪」

松原裕二(57歳・内科医師・東京都)

 

歴史的大惨事となったコロナ禍は、全世界が激しく「風邪」をこじらせたと例えてもいいだろう。そしてようやく、欧米、中東やアフリカなどで脱マスク社会がいち早く達成されて、我が国でもその解放の途にある。けれども少なからず人々はこの解除に躊躇する姿勢を示しているのも事実だ。聞くところによると、世間で「マスクは顔に履くパンツ」と呼ばれることがあるようで、この習慣を一般化させようとする機運もまた感じられる。そしてあまり話題に上らないものの、無言の、咳の我慢をマストとする心理的圧力も未だ続いている。こうした戸惑いを機に、これら対策が本当に我々を「健康」へと導いているのか、と疑念を改めて提起すると共に、古きを温めるべく、その医学的観点を辿り問い質すことにする。

マスクの使用はウィルスなどの侵入を防ぐと共に、吐かれる息が悪しき何かを周辺へまき散らす可能性も低くできる。とは言え、コロナ禍で繰り返し「換気」の重要性が語られてきたにも関われず、微細な口と鼻を塞ぐ構造が、あの不快な「息苦しさ」としてスムースな呼吸を遮ってきた。けれども我々は、適応力の高さを発揮してそこを塞ぐ息苦しさに慣れ、また咳の我慢へも容易にこなす名手へと化していた。さて、「風邪」などの感染症に対する、最も確実な予防法は「手洗い、うがい」と言われ、「手洗い」はきれいな水で雑菌を手から洗い流し、また「うがい」は水でそれらを吐き出させる。すなわち自ら意識しながら、潜んでいるかもしれない病原菌を体外へと解き放つ、理にかなった実践方法だ。一方同じ効果を狙った生体反応もある。つまり「咳と痰」が胸回りの筋肉と肋骨の総力で有害なモノを吐き出させるという無意識な防御反応となる。だから健康を保ちたいのであれば、この我慢を強いることは全くもってよろしくないことになる。

ところで、「マスク」と「我慢」さらに「風邪」にも共通項を重ねる病気がある。その病気とは、現代ではごくありふれてしまった膀胱炎のことであり、その患者はばい菌が局部に繁殖して不快感と痛みに苦しめられる。もしその菌が腎臓へと達していくと、単なる風邪気味から本格的な風邪へ化したかのように、全身から熱が発せられ動くこともままならない。そして高齢者になると、激しい風邪と例えられる「コロナ」のように、命を落しかねないほど重症になることがあるという。その予防法とは免疫を落とさないために、からだを冷やさない、疲れを溜めないなど、全く「風邪」と同じとなる。さらにお小水でばい菌を自ら意識して洗い流すことが大切で、だから医師は尿意を決して「我慢」してはならぬと患者に固く指導していく。しかしそれを遵守できたとしても菌がくすぶり症状を繰り返す、とても厄介な病気だ。

さて歴史を紐解くと、江戸で発布された「病薬道戯競(病気と薬の番付表)」には、なぜだか、このありふれた病気について上っていない。ここで大胆に予測すれば、まさに風邪と共通点が多過ぎる膀胱炎は「下」の風邪、「下風」と命名されても不思議ではないはずだが、医学史上それらしき病名も語り継がれていないのである。だからこの病気は当時、一般的でなかったと仮定できるだろう。他方、この表で目につくのが、同じ「風」でも「中」を冠に置く「中風」である。その病は「脳卒中」であると知られ、脳血流が滞ることで手足などに麻痺を起こしていく。では、なぜ「風」なのか。その諸説を読み解くと、彼らは「中」で患う「風邪」があるとしたことに間違いなさそうだ。そして「流れ」の良い「(正)風」と「流れ」の悪い「邪風(風邪)」を区別することで、「風」という病は空気や血液などの「流れ」に乱れがあると見立てる。こうした思考は、循環社会を完成させた江戸において、パンツ習慣のない彼らが局部を覆いかつ塞がない「がらんどう」にするが「よし」としていたことからも伺える。そして今日、唯一予防効果が実証された「手洗い」「うがい」とは、まさに「正から邪」を「邪から正」へと翻すための意識的営みであり、また振り返れば「免疫」「筋肉」「自律神経」という、これら健康装置はこの円環によって維持強化されている。もしこの江戸の健康に間違いがなければ、我慢し塞ぎ続けた我々の、呼吸器の危機はまだ終わっていないことになる。だから今こそ、この迷いを断ち切ることを決断しなければならない。