【寄稿】太古の知を訪う

小町(19歳・家事見習い・関西支部)

 

  国破れて山河あり

  山河あるところ草木生じる

  草木生じるところ必ず民草あり

 

 これは、大東亜戦争の終戦を朝鮮で迎えた、ある日本軍部隊の終戦始末書の一節です。

 この終戦始末書をお書きになったのは、のちに法隆寺の鬼と恐れられた、宮大工棟梁、西岡常一さんです。始末書は本来であれば、将校が書くものだと言いますが、放心状態になった将校に命じられ、西岡さんはおよそ一時間ほどかけてこれを書かれたそうです。

 私が西岡さんのことを知ったのは、中学校の国語の教科書に、ご著書の「木のいのち木のこころ」の一部が載っていたからで、そのご本が口述筆記の関西弁だったためか、他の文章にはない生き生きした活力を感じ、印象に残っていたのでした。

 西岡さんは、代々、法隆寺棟梁を務める宮大工のお家にお生まれになり、いわば大工になる使命を背負って生まれてきたお方です。お師匠さんがおじいさまで、西岡家に婿養子に入られたお父さまとは兄弟弟子のような関係だったそうです。お父様は、これからの大工は製図や設計ができないといけないから、と西岡さんを工業学校に進学させようと思っていたところへ、お師匠さんの「木の心を知るためには、土を知らねばならない」という一言で、西岡さんは農学校に進まれました。

 大工の仕事場で扱う材木のみならず、農学校時代、それを育む土に学ばれたことが後の仕事にも大きく影響したといい、また、先の終戦始末書にも、西岡さんが土と共に自然の命が巡ることを実感されていたことが伺えます。土さえあればまた新たな生命の芽吹きが訪れる、土に触れて学ばれたからこそ生まれた言葉だったのだと感じました。

 大工に限らず、日本の武術や芸能に見られる師弟の関係では、師匠の姿を「背中で語る」と言ったり、反対に弟子は「技を盗む」ということが言われたりして、一見すると、言葉ではなく肉体の感覚、体で覚えることが重んじられている様に感じられます。もちろん、それはその通りで、弟子はいつでも師匠の背中を穴が開くほど見て技を手に入れなければなりません。が、技を磨くとともに、その心や考え方が磨かれると言うことも確かなことで、体と心を別にして考えることはできないのです。名人であればあるほど、すなわち、技の修行をしている人ほど、体と心が一つになっているのです。「心技体」、心と体を技がつなぐと言うこともできると思います。そのように、心と体がぴったりくっついて離れない名人、名匠たちは、磨き抜かれた玉のような言葉を持っていらっしゃる方が多く、ちょっとした助言にも、幾千年、幾百年まえから磨かれてきた無数の知恵が感じられるのです。西岡さんもその一人で、技と共に磨かれた豊かな言葉を持っていらっしゃるのだと思います。西岡さんのドキュメンタリ映画『鬼に訊け』では、ご自身が引退されて、道具を使わなくなられてからは特に、言葉でもって現場の若い職人さんに技を伝えていらっしゃる様子が印象的でした。

 法隆寺の棟梁には代々受け継がれる伝書があるそうで、これは、もっぱら技術に関することが書かれており、様式書ではなく技術書だといいます。一度修理をしたら次の修理は二百年後、という法隆寺の棟梁にとって、この技術書が二百年という長い時間をつなぐために必要不可欠なものであることは言うまでもありません。そして、それとは別に棟梁の「口伝」があることに、私は興味深く思いました。長年の仕事経験を持つ人の口から、実際にその言葉を聞くと、そこには職人の思いや、働いている姿が混ざり合って伝わります。文字にすれば、口で言わずともその文章だけは伝えることができますが、それではいけないのです。大事なことは、書き残されているからといっておざなりにならないように、あえて書かない。実際に西岡さんは、お師匠さん(おじいさん)の前にお父様と並ばされて、口伝を伝えられたそうで、それを一言一句間違えずに言えるようになるまで教えられ、覚え込まれたそうです。

 インディアンやアイヌに代表される原住民族は教えを文字に書き残すことをしていません。それでもなお、彼らの気高い誇りが止むことを知らず、伝わってきたのは、祖父から父へ、父から子や孫へと語り継がれたからです。口から出た言葉は風の中に消えてゆき、形をとどめることがありません。が、それゆえに、胸に刻まれる。実際、誰かがその教えを伝えなければ、それっきりになってしまうため、民族の教えは長く語り継がれ、途絶えることを知りません。先住民族に限らず、日本の昔話や伝承もそういうものだと思います。自分が生まれる何世代も前を生きていた者の思いを継ぎ、自分が死んでから何世代も後の者にまで思いを及ぼす、という大きな時間の流れが、今を生きる人の中に感じられます。

 とはいえ、やはり記録や文献が少ない古代の建築とつながるためには、見て聞いて触れて、それから隈なくお調べになって、それでも土に埋まっているところや目の届かないところは「心眼」で観察するしかないそうで、それには、我々の想像の及ばぬほど、長い長い歴史を手繰る想像力が必要に違いありません。実際に、西岡さんは室町時代から途絶えていた「槍鉋」という道具の必要性を感じられて、昔の絵に残っている形や、いろいろな資料を集め、それを復活させておられるのです。私はここに、新たな技術の発明でなく、古い技術の発見、復興による進歩を感じます。技術が進歩して人が退化する、そうではなく、人と技が共に進歩したことの素晴らしさを思います。

 古い檜でも、修理をするときに木の弾力は失われておらず、二分削るだけでも大変良い香りがするそうで、西岡さんは、度々「檜は神さま」とおっしゃいます。その木のいのち、木のこころを生かせるだけ生かす。いろいろな木の癖を直すのでなく、癖さえ生かして建物を建てる。それが、古代から続く大工仕事にしかない技なのだ、と私には感じられます。木の個性を生かしていたのは、今のような細かい加工技術がなかったためとも言えます。が、そのように、つまり人間が形を変えやすいようにできていなかったために、かえって「木そのもの」をどう生かすかを、古代から宮大工たちは考え抜いてきたのです。そこに物の個性を生かす、人の知恵が生まれてくるのではないでしょうか。西岡さん曰く、鉋が使いやすくなればなるほど、細かい仕事が思うようにできる様になったが、素材が生きている感じは無くなってくるのだそうです。また、室町時代までは、木の木目が育った方角のままに設えられていたものが、木の加工ができるようになってからは、良い木目を魅せることに重きが置かれ、木の方角を気にせず、装飾的に建物が作られるようになるそうです。

 これは他の文化にも通じるように思います。私は万葉の歌に、素材そのものの素朴な良さを感じることが多いのですが、これが平安朝へ行くと心象を描き出す優美なものになってゆくのです。万葉の時代には、まだ漢字そのものを当て字のようにして使っていたのが、平安朝には平仮名という新たな文字ができたため、おそらく人々は「書く」という動作がなめらかに行えるようになり、小回りもきくようになったために、万葉の頃より心を描く歌が増えたのではないか、すだれの中でも景色を読めるようになったのではないか。道具が使いやすくなると、人はものに自分の意志を与えることができるようになる。私は道具の進化という話にそんなことを思いました。

 千年の年月を生きてきた木を使い、次の千年を耐えうる建物を作るために、その木を刻んで圧縮したり、固めたり、癖を無くしたりして、使いやすく、均一に形が整えられた材料を使うのではなく、曲者の曲を生かし、剛直なものの剛直さを生かし、弱いものの弱さを生かし、組み合わせ、千年続く建物を作るのです。その木々は組み上がった時が完成ではなく、組まれた木がお互いに調和するために少しずつ形を変えてゆき、完成に至る、棟梁はそこまで考えて塔を建てられます。鉄の材料も用いられることがありますが、それは、溶かして型に流し込んで作られた鉄ではなく、たとえ釘一本でさえ、鍛治工によって鍛え上げられたものでなければ使うことはできません。

 材料ではなく、木そのものを見ること。これは大工さんだけでなく、今の私たちが本当に学ばねばならないことです。今、社会のあらゆるところで人材を育て、人材が求められています。が、私たちは人材ではなく人間として育ち、単に人材としてでなく人間として生きる、活きる社会を求め、作らなければならないはずです。自分達の癖や個性を生かし、鍛えて、協力できること、それが千年続く社会を作ることにつながるのではないでしょうか。

 

 法隆寺にはこのような七不思議があります。

 

  法隆寺の七不思議

 

  一、蜘蛛が巣を張らない

  二、南大門前の鯛石は水難を防ぐ

  三、五重塔の上にある鎌

  四、不思議な伏蔵の存在

  五、法隆寺にいる蛙は片目

  六、汗をかく夢殿の礼盤

  七、法隆寺の石は雨だれで穴が開かない

 

 オルタナティブな歴史研究者の中には、塔が信仰の象徴としてだけでなく、電気塔、エネルギーを蓄える役割を果たしていたのではないかと考え、研究されている方もおられます。それは、おそらく公式資料としては書かれていないことでしょうけれど、その方々の研究を、私は一概に間違いだとは思えません。むしろ、興味深く思うのです。確かに、古代の昔、なぜあのような高い建造物が建てられたのか、今でも塔といえば東京タワーやスカイツリーのように電波を受信する建物があります。もし、電気にまつわる役割を果たすものであったとしたら、蜘蛛が巣を張らなかったり、蛙が片目であったり、七不思議も単なるおとぎ話ではない可能性もあるのです。現代において、それらを検証し、神話や誇張話として切り捨てるのはいかがなものか、という気分にもなります。私たちが過去に忘れてきてしまった、技術や知恵は山ほどあるはずです。何も現代が一番進んでいる時代とは限らないのですから。それが嘘か本当か、古代の謎が私にわかるはずもありませんが、七不思議さえ研究されるような構造を持つ古代建築、古代の技術には、私たちが計り知れないほどの知恵、自然の力を生活に活かす技術があったのかもしれません。

 七月、表現者東京シンポジウムでの、ジャーナリスト辻田真佐憲さんのお話の中に、雑誌というものは、本来オルタナティブな意見を出す場所であるはずだが、それが今は一様化してきてしまっている、というお話がありました。雑誌に限らず、今は、マスメディアをはじめとする意見や視点の一様化があまりにも激しく、それは押し並べて等しいのではなく、全く偏っているように思います。

 私が言いたいことは、法隆寺が電気塔であったかどうか、そんなことではありません。

 そうではなく、私たちは、現代の技術が、過去の技術より優れているという視点から、あらゆる歴史や物事を捉えているのです。ほとんど無意識のうちにそういう立場から見ています。が、よく考えてみなければなりません。現代の技術を用いても再現できない構造物が実在する以上、その技術力にしても、その芸術性にしても、今の我々の仕事で敵うところがあるかどうか。私たちの知らない、聞いたこともない技術があったかもしれないのです。

 幾年月を経て今に残る古代建築や古典の中には、現代という時代にとって、大いなる進歩となる発見があると思います。古代と現代、どちらが上とは言えませんけれど、失われた技術の中にも優れたものがたくさんあるはずです。時代の変遷とともに失われた技術や方法が、今を生きる私たち達の生活にとって役に立つとしたら、その価値は最先端技術と同じくらい大きなものです。

 そして、古い技術は、その技術の栄華や衰退の歴史さえ持っています。新たに発明された技術は、成功にせよ失敗にせよ、実績は少なく、その分、古いものより不安定なことは確かです。古い技術も、もっと時代を遡れば新しい技術だったに違いありません。が、大切なことは、新しい技術が、古い技術の安心感、安定感の中から生み出されたということです。それを忘れて、新しい技術ばかりが利用されるようになると、それらに何か問題があったときに、帰るところがなくなるのです。新しいものに伴う危険は、私たちが考えているより遥かに大きいこと、そして、そこには助言をしてくれたり、支えになってくれる古いものの存在が必要だということを忘れずに、歩みを進めねばなりません。

 千幾百年も昔の技術、智慧に、まだまだ学ぶことがある。しかし、その技術や知恵を取り戻すことはとても難しいことです。そもそも、古代建築の技術や知恵に奥深く触れられる機会は、その修復の時のみ、つまり二百年に一度しか訪れません。

 西岡棟梁はじめ、宮大工の方々は数百年の時を超えてその知恵に直接につながる仕事をされてきました。そこで得られた古代の知恵は、今、私たちにも伝えられ、共有されています。私は建物を建てるわけではありませんが、その知恵は、自らの生活、人生にも生かしていけるのではないかと思うのです。