「保守」を信じぬ保守派こそが本物である

小野耕資(東京支部)

 

いまの保守派は偽物だ。

 人を殺す思想こそ本物だ。思想は人を殺すほどの言葉を得てこそ、真に人を動かす。思想はマニュアルではない。真の思想家は、場合によっては自らが交通整理した言論空間をも蹴とばしていく果断さを持たなくてはならない。

 昨今、どこもかしこも保守派だらけの言論空間であるが、その「保守」性はむしろ無内容化しつつあるようにすら感じる。それは単なる反左翼でしかない下卑た連中に止まらず、一見「保守」をきちんと考えているかのような人にすら見ることができる。富者の専横がまかり通り、カネがモノをいい、権力にすり寄る者だけが甘い汁を吸い、貧困にあえぐ同胞がいる社会を改めなければならない。そういう素朴な正義心は、現状維持のイデオロギーの前にかき消されている。

 以下は中島岳志氏の文章の一節である。氏は似たようなことを何度か書いているので出典は明示しない。

 

   保守思想の根本は、理性による設計主義を疑うという態度である。特定の人間の理性に

  よって理想社会を構築できるという態度を諫め、自生的秩序や歴史の風雪に耐えた伝統を

  重視する。そのため、保守思想家は常に「極端」を排する。なぜならば、極端な言説の中

  には、人間の理性によって世界を単一の枠組みで把握することができるという過信と妄想

  が含まれているからである。歴史に対する多様な視点の葛藤に耐え、二者択一的議論を超

  えた歴史の重層性を引き受ける意思こそ、保守にとって重要なものであろう。

 

 この一節に対して、どのような感想を持たれるだろうか?

 個別的議論に異論があるわけではないものの、私はこうした保守のマニュアル的な語られ方に違和感を禁じ得ないのである。

 中島氏の発言はエドマンド・バーク以来の西洋保守主義者の説を取りまとめたものと言えるだろう。西洋保守主義者は、当時の王の独裁を批判しながら市民革命の破壊性にも批判の眼を向けた。それゆえ上記のような思想に至ったのである。だが、日本の歴史には市民革命もなければ、西欧的な絶対王政もない。文化も歴史風土もまったく似通っていない。にもかかわらずどうして西洋の説をそのまま導入できると信じられるのだろう。それこそ「ヨーロッパの説は普遍的であり、それを日本は導入できる、しなければならない」という「過信と妄想」を抱いているのではないだろうか。

 これが「民主主義と自由の世界普遍性を信じる」という左翼が言うなら、賛成はできなくとも理解はできる。

 しかし「伝統」を大事にする「保守」主義者がどうして西洋の説を平然と取り入れられるのであろう。理解に苦しむとしか言いようがない。いくら「保守的」とされている論客だろうが、歴史的経緯を抜きにして外国の思想を日本に導入できると無邪気に信じていること自体が左翼の発想なのである。各国に文化や伝統、国柄があると信じるならば、おいそれと他国の保守思想家などもってくることはできないはずである。日本の伝統を大事にするならば、どうして日本の右派、保守主義者の説を引用して「日本の保守主義」を形づくろうとしないのか。少なくとも西洋に依拠することの恥ずかしさを知るべきだ。例えば幸徳秋水や堺利彦の議論に依拠してその思想を語る左派がいたとするならば、それは「西洋に依拠して語る保守」とどちらに日本への愛情があるだろうか?

 日本に自然に芽生えた保守思想を体現していくべきだと信じるからこそ私は明治時代の言論人陸(くが)羯(かつ)南(なん)を研究している。陸羯南こそ日本最初の保守主義者と言ってもよい。陸羯南については拙著に書いたから本稿では詳述しないが、「明治時代の思想家といえば福沢諭吉」という風潮を改めていかなければならないと思っている。羯南をはじめとした明治二十年代の政教社の議論には深められるべき価値がある。

 ちなみに西部邁、中島岳志『保守問答』には次の一節がある。中島氏の発言である。

 

   近代日本において、このような近代保守思想が誕生したのはどの時期か。これは非常に

  難しい問題ですが、はっきりと言えることは、バークの思想に直接的な影響を受け、近代

  保守主義を導入しようという意識的な潮流が生まれてきたのが、明治憲法制定の時期だと

  いうことです。この代表的人物は、新聞「日本」を刊行していた陸羯南でした。彼はバー

  クの著作を熱心に読み、その思想から影響を受けていました。この点で言えば、陸羯南が

  日本の保守思想の原点であるとも言うことができるでしょう。

 

 本書刊行時点(2008年1月)で私は二十二歳、既に二十歳のころに神保町の古書店で羯南と運命的な出会いを果たし羯南こそ現代日本に必要だと確信していた私は、この発言に小躍りした。だが、その後羯南研究は学術レベルを除いては深められることはなかったのである。

 羯南の言論は、「常に極端を排する」と言うような左右どちらも排そうとする八方美人ではなく、「国民性」や「国民天賦の任務」を根本に据え、そこから発想していくことを何よりも重んじている。羯南著『原政及国際論』の「国命説」という章で羯南は何といっているか。国際法など西洋の植民地支配を自己正当化するまやかしだ、日本の任務は西洋の植民地支配をやめさせる八紘為宇だとしているのである。西洋におもねらず、自分の頭で考える日本の独立心の表明である。

 なお、羯南はたしかにバークをよく読んでいただろうが、その著作でバークはほとんど明言されていない。柳田国男もそうだが、彼らはバークに学びながらも、あえてバークに言及しない恥の心を持っていた。われわれは日本人であり、バークの奉じる伝統とは違う伝統を有している。そのことをよく知っていたからであろう。そうした羞恥心すら通用しなくなったのが現代であり、だからこそ西部はバークを連呼していたのかもしれない。

 

保守のマニュアルを自ら蹴とばした西部邁

 こうした「保守」のマニュアル化は西部邁から起こったものである。

 西部は「保守」がほとんど侮蔑語に近いときから保守の体系化を進め、その結果保守は市民権を得ていくこととなり、保守思想が現代日本にも浸透することとなった。その功績はまことに偉大である。

 だが、私は思うのだが、自らが作った保守のマニュアルをも蹴とばしていった人物もまた、西部邁ではなかっただろうか。西部のような、保守を奉じながら保守にこだわらないアンビヴァレントな心理は、最近の保守派に感じることができない。それこそが保守の無内容さを助長している。

 西部はイラク戦争の折、これをアメリカの侵略であると断じ、イラク戦争に付き従った日本政府も含め激しく批判した。対米従属に侵された日本の現状を強く非難し、いわゆる親米保守とは一線を画した。「左翼への本家帰り」などと陰口を叩かれようとも、西部は自説を曲げることはなかった。

 それは「極端を排し、漸進主義を取り、現実との平衡感覚を重んじる保守」とはずいぶん違う態度であったように思える。あえて言えば西部はこの瞬間「保守」を捨て右翼に近接したと言ってもよい。

 むしろ当時の西尾幹二らの議論の方が極端を排し、漸進主義を取り、現実との平衡感覚を重んじていたとすらいえる。西尾らにもアメリカに対する憤り、対米従属への不満がなかったわけではない。しかしアメリカと戦争しても勝てない以上、”いまは”アメリカに従うほかないという心理がはたらき、それがイラク戦争支持につながったのである。

 だが、ある一線を超えたときに、漸進主義を放棄し、果敢に極論を述べる覚悟を養わなければ、保守は現状維持に簡単に堕落する。「”いまは”反抗すべき時ではない」などと言っていたら、立ち上がるべき”いま”はいつまでたっても来るはずがない。現実主義は現状維持とは違う。いま置かれている現実を認識したうえで、それを理想に近づける精神がなければ、現状に堕落し甘んじる自己の言い訳にしかならない。

 西部邁の本質は極論を排す漸進主義とはおよそ程遠いところにあり、それこそが西部を偉大ならしめているといえるのではないだろうか。大衆批判をしながら実は大衆への期待を潜ませ、伝統や言葉を重んじながらその著作で横文字を多用した西部のアンビヴァレントで複雑な心理を、後進のわれわれは引き継いでいない。

 

バークを、保守を捨てる覚悟はあるか

 昨今のいわゆる「保守」派の言うことは面白くない。

 その理由は何だろうかと考えてみれば、結局のところ「国民の生命、財産、いまの暮らし」を守ることに目が行き、本質的な日本文化の特質であるとか信仰であるとか、原理的なところには目がいかないからではないだろうか。要するに自民党的なのであり、国益は見ても国命(国の信念、存立基盤)は見ない。だから「保守」を語りながらバークだのオークショットだのといった西洋思想家ばかりを語り、神道や儒教の思想を語らないで平然としていられる。アジアを考えず、日本精神の源流を見ず、のうのうと生きて行くことができる。明治時代に文明開化を行いつつ日本を何とか生き残らせようとした大久保利通、伊藤博文には共感できても、国が壊滅的危機に陥ったとしても守るべきものがあると喝破した西郷隆盛に自己投影できない。突き抜けていないのである。大久保、伊藤、そして自民党的な日本の「保守」派によってこそ、「国の大本」「日本の歴史と伝統」は踏みにじられ続けてきたのだ。そんな「保守」派にくくられるのはまっぴらごめんだ。

 西部には、左派全盛期においてあえて「保守主義」を自称し唱え続けた、いわば反骨心に近い「悪」、「毒」性を持っていた。一方で西部の尽力もあってか、現代においては「保守主義」を自称することはさほど「悪」でも「毒」でもなくなってきた。西部は無意識のうちに自らの「悪」、「毒」を保持し続けるために強烈な反米論、そして最後の自裁に至ったのであろうか…。それこそが西部の保守主義の裏に潜むラディカリズム、ニヒリズムであったのかもしれない。

 どうして江戸時代の神道家・儒者や、明治時代の陸羯南など政教社の人々の著作を参照できないのだろうか。諸兄がアメリカ、そしてその背後にあるイギリスを拒絶できないからに他ならない。口先のみGHQを批判しながら、実は戦後のGHQの路線から何ら抜け出ていない。まさに「似非保守」と言う他ない。現代に保守論者など一人もいなくなった。日本人は自国を信じなくなった。信じていたのはただアメリカとカネの力と権力であった。

 いま諸兄に、真に社会に抗する悪や毒、反骨心はあるか。諸兄にバークは捨てられるか。保守を捨てられるか。これらを捨てた先に残るものとは、これらを捨ててでも守るべきものは何か。こうしたことに思いをはせたことはあるか。

 私は「保守」ではない。「保守」を信じない。「保守」を疑う保守派だけが、信用に値するのである。