「死の不安」

奥野健三(75歳・無職・大阪府)

 

 この世で最も平等なもの、それは「死」です。そこには貧富の差はなく、人種の差別もない。あらゆる差別がそこには存在しません。

 人間や動物、草木を含め、生命あるものすべてに死の瞬間が訪れるのです。

 草木が「生と死」をどのように感じているのか分かりませんが、動物や鳥、魚や蚊などの昆虫に至るまで彼らは、その再生とともに特異な能力を通じて自らの最期を知っているのでしょう。

 もちろん人間は集団生活を営む長い歴史の中で、仲間や身内の死を見てきました。

 なかでも身内の死ほどやるせない苦悩はありません。無念や怒りなどあらゆる感情が入り乱れ、残された者にとっていつまでも生きていてほしいと願う心は共通した想いでしょう。

 死期の近づいた病人が水を欲しがる「願い水」が、今日、樒の葉に水を浸し死者の口を潤す「死に水」となったのも、生き返ってほしいと願う遺族の気持ちが葬儀の儀式に取り入れられたのです。

 人の死は肉体から魂が抜けることによって訪れると信じられていた平安時代、貴族たちの世界では死が近くなると陰陽師が屋根に上り、魂を呼び戻す「魂よばい」と呼ばれる儀式を執り行なっていましたが、これも蘇りを願う気持ちが反映されたものでした。

 現代社会において、亡くなった家族の人たちがローソクと線香が絶えないよう、ひと晩中死者に寄り添い、語り明かす夜伽(ヨトギ)と呼ばれる通夜の儀式も、蘇りを願う儀式のひとつです。

 

 ある時を境にして生者と死者は断絶されますが、そこから逃避するようにあるいは拒絶するように、先人たちは生者と死者の交渉を儀式化してきました。それらはすべて死者の蘇りがテーマになっています。

 

 私たちに馴染みの深い「お盆」がそうであるように、「ハロウィン」、カトリックの「万霊節」、そしてカラフルにお墓を飾り付けるメキシコの「死者の日」も先祖を迎える儀式です。

 死者がこの世に戻るという教義のないキリスト教でも、厳しい戒律を守り懺悔を繰り返し神の御許で最後の審判を待ちます。そうして天国で生きながらえることができるのです。また、キリストの復活こそ蘇りそのものと言っていいでしょう。

 イスラム教はキリスト教よりもっと厳しい戒律があります。豚肉を食べてはいけない、飲酒の禁止など日常の生活の細部まで規制されますが、その戒律を守った人は天国で永遠の幸福が約束されるのです。

 これらはすべて、「死後もあなたは孤独ではない、独りぼっちではないのですよ」、と安心を与えてくれているのです。

 身近な人の死に接し、残された人たちは「あの人は今どこで何をしているのだろう?。そして自分が死ぬとどうなるのだろう?どこへ行くのだろう?」と考えます。これは答えの見つからない人類永遠のテーマです。

 この疑問に人間は様々な想像を試みてきましたが、それらはすべて生者の立場の想像でしかありません。そして、死者との交渉である儀式は、「死」を実感するものであり、もちろん亡くなった人からの返事がくることはありません。

 葬送の儀式はすべて残された生者からの一方通行であることが余計に「死」への不安を増幅しているのかも知れません。

 こうした生者の持つ不安や恐怖に寄り添ってくれているのが宗教なのです。

 しかもこの場合の宗教は、仏教やキリスト教、イスラム教などの世界宗教ではなく、アニミズムといわれる古代宗教や土着型の宗教が土壌になっているのです。

 現在、世界中で執り行われている死者を送る儀式は、すべて世界宗教が土着宗教を取り入れたものと言って過言ではないでしょう。

 とりわけ日本では霊魂のみならず遺骨にまでも特別な想いをよせ、死者を丁重に弔い、死者とのつながりを持とうとします。夜伽(通夜)、葬儀、野辺送り、埋葬(埋め墓、詣り墓)などの葬送儀礼の後も、初七日、四十九日、百箇日、一周忌、三回忌、七回忌‥‥百回忌までたくさんの年忌法要があります。

 故人のお墓には春と秋のお彼岸、お盆のお迎えお見送り、毎月のお墓参り、と故人とのお付き合いはいつまでも続きます。そして家にはお仏壇があり、毎日お水やご飯、お茶を備えてお祈りを繰り返します。

 このように死者との交わりは、生者にとって「死の不安」「死の恐怖」を和らげてくれている大きな要素になっていました。

 

 しかし、近年、永く続いてきた生者と死者とのつながりを終わらせようとする人たちが増えてきました。

 それは「墓じまい」「仏壇じまい」です。

 厚労省の統計によると令和4年度(2022年)の「墓じまい」の実数は全国で151,076件あり、都道府県別では北海道が最も多く12,243件、次いで東京都(10,915件)、大阪府(7,934件)と続き、以降は長崎、鹿児島、山口、高知、和歌山、島根。、福島と地方が続いています。

 東京、大阪が上位にランクされているのは核家族化や、散骨、樹木葬などのように葬送に選択肢が増えたことも原因なのでしょう。   

 そのあとに地方が続くのは核家族化に加え、少子高齢化や都市部への人口集中に伴い「お墓が遠くなりお参りに行けない」ことから永代供養への改葬も原因として挙げられています。いずれにせよここ数年のコロナの影響が大きいとされています。

 

 しかし「墓じまい」も「仏壇じまい」も、生者側の言い分であり、当然ながら聞こえてこない死者の気持ちが反映されることはありません。

 お墓やお仏壇は生者と死者との交流の場であり、生と死が重なり合う場所でもあります。  

 これらの場の消失は亡くなられた人を一人ぼっちにし、死者の居場所を奪うことを意味し、残された者には死後の不安と恐怖が襲ってきます。

 何千年という長い歴史を積み重ねて築き上げてきた葬送文化が、深い議論もされず、商業主義の波に飲み込まれ、大戦後のわずか80年に満たない短い期間で無にされることは避けたいものです。

 

 さて、「死」に関する不安でもう一つ書き加えたいことがあります。

 それは、私事で恐縮ですが、10年前に狭心症でステントという人工血管を体内に6ヶ所装填するカテーテル手術を受けました。

 一度では無理があったので最後の3回目の手術が終了したあくる日、白血病で別の病院に入院したのです。

 余命宣告も受けましたが無事に寛解し、10年を過ぎました。どちらの病気も一昔前なら亡くなっているとのことで医療技術の進歩に驚きとともに感謝をしなくてはなりません。  

 日本人の平均寿命がトップクラスなのもこうした技術の進歩のお陰なのでしょう。

 しかし近年は病院のランク付けの根拠が手術例の件数であるなどにより、90歳を過ぎた高齢者にも手術を強要する医師が多いと聞いております。

 医療技術の進歩の必要性は十分に理解しておりますが、行き過ぎた延命治療には首をかしげたくなる人も多いのではないでしょうか。

 それはやはり戦後、急激に訪れた「生命第一主義」が、社会では正義であるかのように扱われていることに反論したいのです。

 駅のホームにある広告看板が近頃は病院ばかりが目立ちますが、ここにも不思議な日本が見えてきます。

 いつまでも長生きをしてほしいと願う家族の意思は尊重されなければなりませんが、死ねない人間の苦しみは、新しい「死の不安」と「死の恐怖」を作り出しているのではないでしょうか。