山月記のその先へ

長瀬仁之介(16歳・学生・京都府)

 

 学校の文学国語の授業で、中島敦の「山月記」を読んだ。これまで国語の授業で読んできた小説の中では、ダントツで好きな文章だった。これがなかなか、自分には応えたのだ。小説を読んだり、映画を見たりすると、心身ともにブルブルと震え上がる感じがすることが、時々ある。山月記のときにも、そのブルブルというのが来た。このブルブルは、「おののき」だろうと、自分は思っている。おののきというからには、きっと何か大きなもの、あるいは恐ろしいものと対峙しているのだろう。一体それはなんだろう。
 勉学に秀で、若くしてエリート街道に躍り出た主人公の李徴は、プライドが高く、一地方の長官として一生を過ごすのが耐え難かった。彼は、当時(唐代)の首都たる長安で、偉大な詩家として百年以上にわたりその名を轟かせる、という夢を抱いていたのだ。ある日、彼は地方長官の職を降り、詩作に励むようになる。しかし、最後まで彼の名が広く知られることはなく、だんだんと生活も苦しくなってきて、夢を半ば諦め、また地方長官の職に就きなおすことにする。もうその時には、以前まで同僚だった者たちは既に高位に就いていて、これが李徴のプライドを酷く打ち砕いた。ある夜、彼は突然発狂し、どこへともなく走り去り、行方知れずの身となる。それから長い時が立ち、高官の袁傪が部下を連れて道を歩いていると、傍から虎が躍り出た。なんとその虎は人の言葉を喋った。袁傪は、すぐにその声が行方知れずになった旧友・李徴のものであると気付く。李徴は、袁傪に自分が虎になった経緯を話し出す。そして、有名な言葉だが、最後に李徴は、こんなことを言う。
「共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。」
 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。そういう人は一定数いるだろうが、李徴の言うこの心が、自分にはすごくわかるのだ。すこし自分について語らせてもらうと、今は田舎の高校に通っていて、「良い大学」に合格するために、受験勉強を頑張っている。そして、将来は物書きとして生きていけたら、と思っている。だから自分は、周りに比べて、物を書く素質や、物を考える素質があるはずだ、というか、あらねばならぬ、と思うことが多々ある。だから、なんだか、周りの同級生が少しインテリぽい匂いのする本を読んでいると、その自分の素質が脅かされる気がしてしまう。非常に情けないとは思っているのだ。でも、羞恥心がその情けなさの先へと突き抜けることを許してくれない。これまでも、何度か文章や小説を書こうとしてみてはいるが、いつ羞恥心が襲ってきて、これを投げ出してしまうかも知れない。次の文を書いた時には頭が動かなくなって、これじゃ駄目だ、とまた投げ出してしまうかも知れない。こんな不安定な状態ではいけないのだ。この自分の焦燥感とも不安ともつかぬ感覚が、山月記には、まんま描かれていたのだ。山月記を読むまで、この感覚が、自分の中で確実にその存在を顕現させることはなかった。いやはや、おどろいた。この時、自分は山月記の中に、自分の感じる恐怖をそのままに見たのだ。自分の心が、中島敦の心に共鳴した気がした。
 もちろん、そのような経緯で山月記が自分に刺さった、というのは一つ驚きだったのだが、それと同時に私にとって驚きだったのは、戦前の頃から同じ感覚を抱いている日本人が存在したということだ。(もっとも、山月記の舞台は中国なので、ちょっとややこしいところではあるが、中島が舞台を中国にしたのは、元になっている話が中国のものであることとか、単純に話の整合性を保ちやすいこととか、単純な理由によるものだと思っている。)
 学校の授業には、文学者・中島敦の紹介文として、こんなのがあった。「古典作品を材に取った格調高い文体と形式で、近代人の自意識、苦悩を描いた。」この自意識、苦悩とはつまり山月記でいうと、李徴の自尊心と羞恥心のことだ。これが近代人の自意識、苦悩であるということは、近代になる前の日本人には、このような感覚がなかった、というわけだ。もう既におわかりだろうが、これは西洋の文化が日本に侵入してきてから、我々の中に生まれた感覚なのではないか、と私は思う。
 以前までの農村社会において、そのように過度に他者と自分を比較して優劣を付ける必要はあっただろうか。昔は共同体として生きる感覚が根っこになって、日本の社会を作っていた。しかし、明治以降、徐々にそのような農村社会は崩壊していく。個人主義的な要素が共同体感覚を押し退けて前面化するのだ。そこに待っていたのが、我々の生きる今まで受け継がれる、他者との比較の感覚ではないだろうか。
 この感覚は、山月記が世に出た1942年から82年経った今の日本人にも伝わっているわけだ。これは、なかなか驚きであり、また、なんだか偉人と繋がりあってるみたいで嬉しくもある。しかし、その感覚自体は、あまり容易にポジティブにとれるようなものではない。
 この感覚を、今更悪しきものであると言って、排除することは不可能だ。感覚を裏切ることは、やろうと思ってそう簡単にできるものではない。では、この感覚とどう共存していく道が、私には残されているのだろうか。
 現時点、その答えが出せていない、というのが結論だ。まだ学も経験も浅い私の頭では、そこまで程度の高い議論に至ることはできない。これからの長い人生の中で、少しずつ答えに近づいていけたらと思っている。では、中島は、この問題を乗り越えることができたのだろうか。あるいは、虎として生きることを最早受け入れた李徴は、それを乗り越えた、と言えるのだろうか。否、李徴という人間はそこまで諦観できてはいなかった。台詞の端々に、彼の葛藤が未だなお垣間見える。やはり中島も、この答えだけは出すことができなかったようだ。33歳での早逝もやはり悔やまれる。この問題を乗り越えられなかったという点で、山月記は完璧な作品ではなかったと言えるのかも知れない。しかし、中島が山月記によって現代の我々に至るまで書き記してくれたこの感覚を、我々は、日本人の子孫として、蔑ろにしてはならない。今度は私たちが、山月記のその先を描いてゆく番ではないだろうか。別に上等な文学作品をしたためろ、などと言うわけではない。行動は言葉より雄弁であることもある。日本人としての自覚を持って、我々が今を懸命に生きることができたら、我々は自然に、山月記のその先を綴っているのだ。