【寄稿】不登校増大の根本原因とその解決の方途

田中善積(68歳・社会評論家・東京都)

 

不登校は構造的な問題

 2023年度に不登校だった小中学生が前年度比16%増の約34万6千人となったことが文科省の全国調査で分かった。不登校の増加は11年連続で、30万人を超えるのは初めてとのこと。少子化で子供が減っているのに、不登校の子どもが増えているという異常事態が続いている

 1985年に大阪に「登校拒否を克服する会」、東京に学校以外の居場所づくりの活動をする「東京シューレ」が結成されている。当時は不登校ではなく、登校拒否と言っていたのだが、大きな問題として認識され始めて約40年になろうとしている。しかし、事態は悪化するばかりである。その根本原因を明らかにしつつ、解決の方途を提示したい。

 まず、不登校は教育界を取り巻く構造的な問題が原因となって起きているので、対症療法的な処置では解決できないことを改めて認識するべきである。家に例えると、土台部分から建て直すべきレベルなので、年数が経つごとに建物の傾きは確実に酷くなる。倒れそうな建物に人が近づかないように、子供や教師が離れ始めている。そういう状況の中で不登校が増加し、教員志望も減っているということである。

 土台というのは中央集権的な教育行政を指している。現在の教育行政は、明治4(1871)年に文部省(文科省)を創設した時から続いている。内閣制度の発足が明治18(1885)年なので、かなり早い段階の創設だということが分かる。明治の藩閥政府は富国強兵を推進するため、どうしても標準語で国民を統一的に教育する必要があると考えた。学制を発布(1872)して、全国一律的な近代教育制度を導入する。

 

・地域の実情に合わせた教育が行われていた時代

 江戸期の教育を否定するかたちで近代教育が導入されているので、簡単に振り返ってみる。幕末には各藩に藩校、そして寺子屋ありということで、それぞれ独自の考え方で教育が行われていた。小さな藩ほど教育熱心な傾向がある。典型的なのは津和野藩。現在の島根県の最西南端にあった藩であり、外様雄藩の長州藩と親藩の浜田藩に挟まれた小藩である。藩校養老館を設立して、文武両道を謳いながら人材育成を図り始める。

 養老館への入学は15、6歳だが、それまでは城下の私塾や寺子屋で四書五経を中心に学んだ。生徒数は約50名(通学30名、寄宿生20名)。この小さな藩校から、日本近代哲学の祖と言われた西周(あまね)、明治の文豪の森鴎外、日本紡績業の父と言われた山辺丈夫(たけお)、日本地質学の父と言われた小藤文次郎など多くの人材を輩出した。

 ほんの一例を紹介したが、江戸末期は各地でその地域の実情に合わせた教育が行われ、地域が求める人材を育成していた。教育というのは、もともとは後継者育成のために始められたものである。農村部であれば農業、山間部であれば林業、商業地であれば経済や流通のことを重点的に次世代に伝えていたので、それが地域の再生にも繋がっていた。地域の特性に関係なく、全国共通で同じことを教えていれば、当然そこには矛盾が生じることになる。

 

・矛盾がありながら顕在化しなかった時代

 矛盾がありながら顕在化しなかったのが戦前である。なぜ、顕在化しなかったのか。そもそも、矛盾が生じたからと言って、すぐに表面化する訳ではない。タイムラグは当然ある。そして、新しい制度が導入された時は、誰もが期待感を持つ。肯定的かつ善意に捉えようとしたのであろう。

 日本で近代教育が整備された時期は、地域の共同体が機能していた時代である。地域で必要な知識はその地域で学び合い、そして家庭は今のような核家族ではなく大家族が殆んどなので、生活する中で年長者から様々なことを学ぶことも出来るような環境であった。

 子供を取り巻く環境が自然に整備されていた時代だったので、全国一律教育が実施されたとしても、子供たちは何の矛盾も感じなかったはずだ。そして、戦前の教師は師範学校という特別枠で養成されていた。師範学校の学費は無料なので、家が貧しくて大学に行けない人たちの受け皿にもなっていた。そんなこともあり、子供思いの優秀な教員を多く獲得できたのである。教育で特に重要なものが教師の教育的力量である。「教育は教師なり」という言葉がある位である。力量が維持される制度的仕組みが担保されていたのである。

 登校・下校という言い方がある。すべての学校が山の上にあるなら分かるが、何故このような表現をするのか。要するに、これが当時の人々の学校に対する意識だったのである。ある保護者は職員室に入る前に、叩頭(こうとう)したそうである。明治の始めの頃のエピソードである。「三歩下がって師の影を踏まず」と教えられた時代だった。ところが、今や盗撮を警戒して三歩下がって師から離れる時代になってしまった。

 

「ゆとり教育」の歴史とともに不登校が現れる

 不登校は、「ゆとり教育」の歴史とともに現れた現象である。「ゆとり教育」というのは、言葉の「あや」であり「まやかし」であるが、1970年代の詰め込み教育批判に対して、文部省(現文科省)が考え出した思い付きの方針である。

 元を辿ると、1976年の教育課程審議会の中で「ゆとりと充実」といったことが打ち出されている。それを受けて、1980年から文部省(現文科省)が全国の公立小中学校に対して「学校五日制」の方針を示す。世の中の学校に対する見方が変わった瞬間だったのかもしれない。通うのが当たり前から、通わないことによって「ゆとり」を得るという選択を与えてしまう。パンドラの箱が開いて、不登校に対する免罪符が飛び出た瞬間だった。「ゆとり教育」をきっかけに不登校が増えたのは、そのためである。

 詰め込み教育の批判として「ゆとり教育」が提唱されたが、3重の過ちを文科省はする。1つは、「学校五日制」に向けて舵を切り、学習内容の削減を図ったこと。文明の高度化に伴って学習内容は難化するので、学習時間を長くする必要があるのだが、真逆の対応をする。

 2つ目は、土曜、日曜が連休になったこと。連休開けの勤務は大人でもつらいもの。その辛さを毎週(当初は隔週)子どもたちに与えることになった。

 3つ目は、教育問題の「五日制」と労働問題の「週休2日」を無謀にもセットで考えたことである。「ゆとり教育」が提起された頃は、週48時間労働から40時間労働に移行する時期であった。教員の勤務時間も将来的に40時間に合わせる必要が出てくる。本来なら、それに合わせて教員の増員を考えるのが筋だったし、そうしていれば今のように教員不足で苦しまなくても済んだはず。「週休2日」を先取りする考えから「五日制」の導入を決めてしまう。違う問題を一緒に処理しようとする乱暴さが今日の事態を招いたとも言えよう。

 現代の学校、特に公立の小、中学校は、我慢して行く処ではなく、場合によっては行かなくても構わない場所になりつつある。そういう中での不登校の増加であろう。言ってみれば、消費者感覚になっている。美味しい料理を出すなら行くけれど、そうでなければお店に行かないという感覚で現代の親子は学校を見ている。

 

・諮問行政の問題点

 地方によって言葉、風習、産業、文化、さらには地形的特徴も違うのに、それを全国一律教育で行うという考えでスタートしたが、その時点でかなり無理があった。それを戦後においても踏襲してしまう。しかも、教育行政を担う文科省の職員は、国家公務員上級試験に合格した人たちなので出身地は勿論関係ないし、法学部や経済学部出身者が殆どである。教員免許を取得している人はいると思うが、教育学部出身者は殆どいないし、教育現場経験者は皆無であろう。そういう文科省が全国の小中高等学校、さらには幼稚園に対して、教育内容に絡んだ方針を打ち出さなければならないのが苦しいところである。調理士免許を持っていない団体が、全国の料理店にメニュー指導をするようなものである。

 その矛盾を解消するために諮問行政という方式を取っているが、上手く機能しているとは言い難い。中央教育審議会が中心に位置付けられているが、その他、教育課程審議会、科学技術・学術審議会があり、その下に各種委員会、分科会がある。審議会のメンバーは大学で教育学を教えている方や経済団体のトップも含めて、各界で実績があった人を揃えている。「船頭多くして船山に登る」という諺もあるので、高名な方を集めれば良いというものではない。組織というのは、特に日本の場合は忖度の原理が働く。それが働くことによって決まった方針が、必ずしも求める結果に結びつく訳ではない。実際に、「ゆとり教育」の方針もこういった審議会の中から生まれたものである。

 

地方分権と教員養成

 教育というのは個別具体的なものなので、とにかく現場の子供の実態に組織がいかに柔軟に対応できるかが一番重要である。そのためにも教育権限を地方の教育委員会に移すべきだろう。元々江戸時代は各藩で独自の教育を展開できていたし、人材も輩出していた。心配ならば、当初はモデル地区を選んで、徐々に権限移譲するという方法もある。地方によって欲している人材が違うので、その人材が供給できるような教育課程を地方が独自の判断で自由に編成できるようにすべきである。文科省はそれを裏から支える役割に徹するべきである。地方創生と政府は言っているのだから、その為にも地域の実情に見合う人材育成を学校教育の段階から行うことができるように権限を委譲する必要があるだろう。教科書も学校ごとに変えても構わない。現に私学は教科書を現場の教員が採択している。

 次に教員養成の問題。教員の待遇を良くすれば教員の質が上がる訳ではない。すべての採用予定者に対して、初任者研修を最低でも1年間実施して、教員の力量を高める必要がある。初任者を、いきなり担任デビューさせるという乱暴なことが行われてきた。現場で補助的な業務をしつつ授業実習を重ね、専門の勉強を深めるなどして、教師を養成する態勢をつくるべきであろう。

 そして「チームとしての学校」と文科省は言っているのだから、校長をはじめとする管理職を数年単位で機械的に転勤させるようなことをせず、まずヘッドを固めて、多くの裁量権を与えて特色ある学校づくりを推奨することである。