このご時世

小幡敏也(沖縄県・26歳・公務員)

 

 世間の多くの人が、「近頃は予測のつかない世の中になったものだ。」と言うけれども、そのように言うのであれば、一体予測のつきやすい時代などかつてあったのかと問いたい。明日の天気をただひたすら案じ、天候次第で餓えもすれば殺し合いも起こった時代の方が遥かに不確かな時代というべきではないのか。
 現代など、予想がつき過ぎて馬鹿馬鹿しいくらいである。家族は衰え、道徳は廃れ、人は疑り合い、互いに利を競う。その激化は全く一直線で、相場は一辺倒である。技術は栄え、人は枯れ、寿命は延び、健康は害され、教育は行き渡り、人は愚昧になり、法は徹底され、人の心は波騒ぎ、そんな時代にあって人は、互いの権利を尊重しつつ、足元の心もとなさに急き立てられて他者に牙を剥く。そういう調子をただ日進月歩に行くだけではないのか。
 とはいえ世の中の移り変わりというものは妙なもので、一体どういうものが悪さをして原因となっているのかを考えてもなかなか分からないものである。しかしながら、ここ数年でまた一段と悪くなったことは街中を歩いていても強く感じるところである。私にはもう街行く人が人に見えない。正確に言うならば、それはまるで異邦人を見るような見え方をするのであり、父母の世代に属する人は、「自分の父母であったかもしれない。」というようには見えず、同世代の異性は「ややもすれば伴侶になる。」というように見えないのである。このような感覚は共同体の輪郭を保障するものであるのに。(もっとも、私は既に妻帯者であるが。)
 とはいえ、世の中というのは考える程に複雑なものでもなく、それは八っつぁんや熊さんが集まって構成しているに過ぎず、所詮問題はこの愛すべき一般大衆の質が坂道を転げ落ちるように低下しているところにある。
 私は大衆の良心を信じる方だが、社会の中流層が道徳の安全弁になっていたころの面影はもはやない。彼らは至極常識的な理想の市民に成り下がってしまったのである。理想の市民になったとは即ち、生活の色を、文化を失ったということである。
 大衆はあまりにも過激な形でこれを失ってしまったのではないか。大衆はかつて自ら育んだ文化の中で社会規範を常に成り立たせていたのであるし、それを乗り越えようとする力との間で健全な調和を生んでいたはずである。「永遠のブランコ」はもはや振り切れてしまって戻ろうとはしない。
 かくして現代は健全な生きづらさから完全に解き放たれてしまった。もはや頑迷なことを言って人を規範に向かわせるものは見当たらず、人は時代的雰囲気に紐が切れた凧のように促されるまま従うことでしか善悪を判断できない。しからば、「会社への忠誠心より、高い報酬を提示する方につくのが当然である。」という風がいったん吹けば、会社を裏切って他社や他国に元の会社で培った技術を売る連中が増えるのも当然である。
 要するに、人は普通、自律的に規範意識を得る程に生真面目には造られていないのである。人を取り巻く雰囲気の悪化と人間の毀損とは互いに助け合って加速度的に進行する。その運動の中で世の乱れを是正しようと試みるならば、それはもはや痛めつけられた人間の文化を復興することでしかありえない。
 そして私はそれを幾らか諦めてしまっている。