改題第3号(通巻第81号) 読者からの手紙

点数至上主義と国民統合

 東京医科大学の入学試験において女性受験生を不利益に扱う点数操作が大々的に報道され、女性差別等として強く批判されているが、批判の根底にあるのは、①入試では筆記試験の点数のみをもって合否を決するべきであるという考え方である。また、②女性を合格者の何割以下とするといった不利益取扱、即ち男性優遇に合理的理由が仮にあるとしても、そのような扱いを募集要綱等に明記すべきである、といった考え方も根底にあろう。

 ここで特に論じたいのは①の考え方である。確かに、点数至上主義はこれまでに様々な批判を受けてきた。教科書の丸暗記しかできない、正解のある問題にしか取り組めない、創造性のある人材を登用できない、個性を伸ばすことを妨げる、等といったものである。

 しかし、点数至上主義とは、近世までの縁故・門閥による人材登用を排除し、出自や家柄を問わずに各人の努力・資質のみで選抜するものである。年齢制限はあるが、国民全てに立身出世の門戸を開くという点で、試験の前で人は平等であり、身分等にかかわらず自分の人生を切り拓けるという認識が日本で国民一般に共有されることは、日本におけるある種の公平さ・公正さを形成し、国民統合のための価値観の一つになるといえる。

 他方、点数至上主義の実践である筆記試験に代わる手法として、いわゆる内申書・調査書による人物評価等で選抜するというものがあるが、これは各人の共同体における多面的評価に依拠して人材を選抜する性格のものである。一見バランスの良い評価手法のようであり、共同体内のエリートの選抜・育成に適するが、共同体毎に評価者が異なり、評価者の主観に左右される以上、被評価者である受験生への評価も、所属共同体という「服」をまとったものとなる。共同体の枠を超えて日本全国から選抜される受験生全体を同一の基準で平等に評価することができない。これに対し、受験者全員を同じ土俵の上で同一の基準で比較・選抜する一発勝負の筆記試験は、所属する共同体を捨象した「裸」の個人を吟味するという性格を持つ。国民一人一人を個人として扱う社会を想定する国民国家の憲法秩序の観点からすると、点数至上主義乃至筆記試験は、各人の平等意識を共有する国民を統合して成立する国民国家に適合的なのである。

 勿論、我が国では、立身出世の道が試験による選抜に限られておらず、例えば企業等の就職活動や就職後の実務では、筆記試験以外の能力がみられており、学力が唯一の要素ではない選抜の場面が多々ある。企業等の中間共同体のメンバーを選抜する場面では、組織内の仲間として相応しい人物を選抜するには、学力のみならず、組織風土に合った性格・人柄等の要素が重要になるからである。

 しかし、経済構造が新自由主義的になって所得格差が拡大した現代だからこそ、点数至上主義の筆記試験による選抜は、親が裕福でない者にも立身出世の最初の関門を突破する機会を提供する、国民の平等を実現する貴重な場面なのである(幸い、我が国では教科書や問題集を比較的安価に入手でき、個人の努力で英数国理社といった伝統的学力を伸ばすことができる。スポーツや芸術、学校外の活動により評価されるAO入試等による選抜の場合、親の経済力や指導者等の環境次第では、それらの能力・資質を十分に伸ばすことが難しい)。医師の就職は大学入試で完結するものではなく、病院とのマッチングにも依拠することからすれば、大学入試は純粋な学力勝負の場だからこそ、東京医科大学の入試における点数操作は、国民主権の根幹である国民の平等を実現する場を破壊し、国民統合を損なう暴挙である。強く非難・批判されたのも、国民の平等意識の視点からは当然だといえる。

 がり勉を漢字表記すると「我利勉」となるように、試験勉強は究極的に利己的行為である。しかし、受験生が学力による選抜を信じて励むことのできる点数至上主義の環境は、国民全てを平等に扱い、誰にでも国家・社会において活躍する機会が与えられているということを意味し、国民統合の現れに他ならないのである。

投稿者 : 

  • 山口泰弘(34歳・東京都・サラリーマン)

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