改題第5号(通巻第83号) 読者からの手紙

サイワイから予見すべきサイガイ

 一休宗純の狂歌として伝えられている句に

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」

というものがあります。めでたい筈のお正月に、しゃれこうべを杖の先に掲げ、京都の町を「御用心、御用心」と言いながら練り歩いた、と言われています。

 先日大阪でのシンポジウムで藤井編集長から、大衆の記憶力の欠如という問題の指摘がありました。悲惨な災害も、どんな不幸も、誰かの嘘も、それを心に留め続けるという心理的な負荷を多くの人が忌避し、刹那刹那に処理され社会がそれを忘れてしまう、というものです。それを聞いてその一休和尚の話を思い出していました。無事に年を越して新年を迎える節目。そうして一つ歳を重ねるということは、それだけ冥土へと近づいているということでもあり、そんなお正月はめでたくもあるし、めでたくもない。正月で浮かれていないで人の本分を思い出せ、という一休さんらしい皮肉です。

 その点同様に違和感と不気味さを覚えるのが、例えばニュース番組での報道の様子について。どこかの災害、誰かの訃報、凄惨な事件、痛ましい事故。これらをアナウンサー達はさも心を痛めている様子に、深刻で悲痛な表情をしながら記事を読み上げます。しかし「さて次のニュースです」と次のネタへ変わると直前までの心痛などどこ吹く風に、ケロリと表情を変え「桜の開花の頼りが届きました」等と、晴れ晴れとして伝え始めます。まるで柏手をうち邪気払いの禊でも済ませたかのように、一瞬で気分を反転させて次の記事を読み上げ始める。あのアナウンサー達の顔が不気味でなりません。

 神社へお参りする際に禊をするのは、不浄な我々が神域へ侵入する為にその穢れを清めるものです。このメディアの有様はまるで「報道という禊」を済ませたことにより、災害や事件が打ち払われ浄化を済ませたのだ、とでも言いたげな振る舞いに思えてなりません。報道そのものによって誰かが救済されるわけもなく、また我々の不浄が清められるわけでもありません。

 そうして不幸を刹那に処理する事を日々繰り返し、大衆に「嫌なことは忘れてしまおう」という慣習を、まるで訓練させているのではないかとすら感じてしまいます。番組スタッフにも、それを見る人々にも、誰にも悪気など無いのでしょう。また報道という役割には、そういう側面を持たざるを得ないものかも知れません。しかし、ただお正月を祝う昔の人々よりも、現代の我々はより悪質に、どこかの誰かの不幸を一瞬で過去のものとして「消費」してしまっている様な心持ちがしてならないのです。

「死支度 致せ致せと 桜哉」

 小林一茶の句にこのようなものがあります。美しく咲く桜の姿の中に、次に訪れる散りゆく定めを感じざるを得ない。僕ら日本人の心性には、本来こういった満開の桜に自身の死の予兆を認めるような、表層的なものの向こうに意味や価値を見出してきたはずです。でなければ俳句のようにたった十七文字に深い情緒性を込めることも、それを理解し受け取ることも出来はしないはずです。不幸なニュースに続く桜開花の報道の中に、繰り返す季節と我々の儚さや輪廻を見い出せばこそ、ハイデガーの言う人としての「本来性」に近づけるのではないでしょうか。

 特集の「思想としての防災」で「災害を天罰あるいは天譴と捉える天譴論が災害後に出てくる国っていうのは、自浄する力を持つ」(前号 p.43)と指摘されている事を言い換えれば、何気ない幸せな日常に潜む危機の予兆や、あるいは平穏の薄皮一枚向こうに潜む不幸の蠢きを感じ取ればこそ、「日本人の超越性」(同 p.49)を取り戻せる事でもあるのではないでしょうか。禍福は糾える縄の如し。サイガイをサイワイにする力が必要なように、「めでたいお正月に敢えて警鐘を鳴らした一休和尚」や、「美しい桜に自身の死を予感した小林一茶」の様に、サイワイな日々の中からサイガイを予見する力も取り戻さなければならないと感じます。

投稿者 : 

  • 谷川岳士(大阪府、37歳、会社役員)

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