生の所在

山田一郎(46歳、神奈川県、国家公務員)

 

 得も言われぬ不安に駆られたことがある。それは就職活動をしている時のことだった。私は自分の関心のある分野の企業の資料を取り寄せ、企業研究を行い、応募をしようとしていた。いや、正確に言えば、応募するものだと思っていた。周りの皆がそうしていたように。

 しかし、私は途中でわからなくなってしまったのだ。それは、自分の関心がわからなくなってしまったのではなく、これからの自分がどこにつながっているのか、つながっていられるのか、何か切り離されていくような気持ちに襲われたのだ。世の中で自分だけが「切り離されている」ような気持に。

 私は自由であった。家業があるわけではない。何をして暮らしてもよい。好きなことをやればいい。しかし、私はわからなくなってしまったのだ。教科書には答えは載っていなかった。

 悩みに悩み、時間もかかった上で、ようやくこの不安から逃れる一つの答えが、「地元で働く」ことだった。結果的には、第一希望どおりとはいかなかったが、この考えが、ふっと自分の気持ちを楽にした。それは、振り返れば、「つながっている」という感覚だったのかもしれない。

 今日、政治やら経済やら社会やらの状況を見れば、やれ成長が、やれ生産性が、やれ効率が、やれ活力が、やれ人権が、やれ自由が、やれ平等が、といった話が溢れている。もちろん、それらは否定するものではないのだが、人が生きていく上で、本質的なことはもっと別のところにあるのではないか。

 「これからは〇〇の時代だ」、「生き残るための自分磨き」、「不断の改革」、など、まことしやかな言説が飛び交うが、本当に大切なことは、もっと別のこと、もっと手に馴染むもの、手触りのあるもの、地に足のついているもの、なのではないか。

 こうしたものはどこにあるのか。端的に言えば、それは、歴史や伝統や文化の中にある。それは長く続いているものだ。もちろん、長く続いているからといって、すべてが善きものというわけではない。悪しき歴史や、悪しき伝統や、悪しき文化もある。見極めや見直しは必要だ。しかしながら、長く続いているものの中から、確かなものを掬い取っていくことが、人間の生を確かなものにするのではないか、そこに、生の所在があるのではないか。

 世の中に流布しているまことしやかな言説、これは往々にして面と向かっては否定し難いもののように見えるが、惑わされてはならない。確かなもの、生の所在を確認していく必要がある。それは、真なる生者と生者の意思の往復であり、生者と死者の意思の往復である。