改題第8号(通巻第86号) 読者からの手紙

「努力」を批判する

 現代では、いわゆる改革派官僚たちをはじめとして、大衆化したエリート層が、新自由主義的な改革を推し進めているといいます。また、そのような高学歴の大衆をAnywhere派と呼ぶこともできるといいます。
 実はここに、矛盾を見付けることができます。Anywhere派とは、自分たちが特別な人間だという価値観を有しているといいます。一方で、大衆とは「自分が他人と同じ人間であることに喜びを感じる人々」のことです。自分が他人と同じ、つまり凡庸な人間だと感じている人が、自らを特別な存在だとは考えないはずです。
 しかし、実は矛盾していないのかもしれません。少なくとも日本の場合、Anywhere派は、自分たちが凡庸な人間だからこそ、自分たちを特別な存在であると感じている節があるように思います。

 例えば、改革を支持する都市住民のサラリーマンや、改革派官僚たちというのは、大多数が高学歴の人々です。彼らはもともと、平凡な家庭に生まれたのかもしれませんが、学生時代に努力して、高学歴になったのだと思います。その結果として、Anywhere派に仲間入りしたわけでしょう。彼らは、Anywhere派としての選良意識があって、社会により良い変革を与えようと信じているのかもしれませんが、それは過去に努力してきたからこその特権であると考えているのだと思います。
 つまり、彼らは本来的には凡庸な人間であるが、学生時代に「努力」したことによって、目下の特権的な地位を獲得したと思い込んでいるということです。凡庸な人間が、「努力」したことでエリートになるのです。
 すなわち、Anywhere派は「努力」をあらゆる価値の源泉と考える努力至上主義を暗黙の裡に標榜することで、自分たちは凡庸でありながら、自分たちは特別であるとみなすことができるのです。

 これは、社会的地位が学歴によって、また学歴が受験戦争という競争原理によって決められることが原因なのかもしれません。努力至上主義とは、競争原理主義に言い換えられますし、競争原理主義の掲げる至上の価値として「努力」を持ち出すこともできます。
 市場競争でも、同じことがいえると思います。優れた商品、サービスを世に出して、それが市場で評価されたなら、それは本人たちの「努力」のおかげということなのでしょう。かつて、日本で市場原理に基づいた改革が行われた時も、改革側は「努力が報われる社会」を掲げていたといいます。

 しかし、「努力」というのは、そんなにも一般化できるものでしょうか。
 もちろん、勉強を頑張ってきたことなどは、その人の評価に加わるべきことです。しかし、それはあくまでその人の一側面に過ぎないものです。
 例えば、良い大学に入れるかどうかを左右する要因として、その人の生まれ育った環境、あるいは社会条件といったことも考慮に入れる必要があるのでしょう。本人の社会的地位に、彼らの「努力」がどれだけ貢献しているかを測るのは困難だということです。
 また、一口に「努力」といっても、人間に要求される能力は、時代や状況によって変わってくるはずです。これまで自分の励んできたことが、偶然にも時代の要請に一致していたとして、それは果たして全面的に本人の努力の結果といえるものでしょうか。

 オルテガは『大衆の反逆』において、「大衆は、その凡庸さとしての権利をあらゆるところで押し通そうとする」といっています。現代のエリート層は、「努力」を価値として抽象概念化し、凡庸な自分に特権を与え、それを支える競争原理をあらゆるところで押し通そうとしているのでしょう。
 私は、人間が努力することを全く否定するものではありません。
 問題なのは、「努力」を抽象概念化して、それをあらゆる評価の仕組みとして原理的に適用しようとすることです。私たちは、私たちの身近にいる人の努力だけをきちんと見てあげれば、それでよいのだと思います。

投稿者 : 

  • 佐々木広(神奈川県、学生、22歳)

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