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かつてのグローバリズムと都心集中

佐々木広(神奈川県、 22 歳、学生)

 

柴山桂太氏の『静かなる大恐慌』には、グローバル化と東京一極集中の関連性について言及されています。
 
まず、資本移動の自由化によって、工場などの生産拠点が日本から海外に移転されたことにより、各地域では製造業の空洞化が進ん
だといいます。その一方で、情報と資本が集中する都市では雇用が持続し、さらにサービス業における「密度の経済」も作用して、人口も集まっているというのです。
 
このように、グローバリズムと国内の経済状況は連関していることが窺えるわけですが、かつて大戦前の国際資本移動の自由化、い わゆる第一次グローバリズムの際にも、同様のことを推察していた人がいました。
 
日本の民俗学者、柳田国男です。
大正十四年に書かれた彼の小論「地方文化建設の序説」には、都市と地方の関係について、なかなか示唆に富む内容が記されています。
 
はじめに柳田は、当時の国内の状況について、農村よりも都市の利益ばかりが優先されていることを指摘します。
この時代も、人口と資本の都心集中が問題視されていたのでしょう。
そして、その背景として柳田は、海外との関係に注目します。
外国の文明をたくさん輸入しているときは、都市に権力が集中し、逆に外国との取り引きを抑制すると、地方に権力が分散することが、歴史的にいえるというのです。
 
例えば、日本に律令制の中央集権国家が成立した頃は、中国の文明を盛んに取り入れていた時代であったし、
荘園を拠点とする地方武士の権力が強くなるのは、中国との交流を途絶(遣唐使廃止)してからだといいます。
そして、西洋文明を熱心に摂取していた当時も、中央集権化に伴い、都市の優位が顕著であったのでしょう。
 
確かに、海外と盛んに交易して いれば、都市の消費は、地方の製 造品や農産品に縛られる必要がな くなります。しかし、地方は輸出 産品でもない限り、販路として国 内市場に依存せざるを得ず、都市 に対して劣勢に立たされるので しょう。翻って、海外との交易を 抑えれば、都市は地方の生産に頼 らなければ生きてゆけず、権力は 地方に向かうと考えられます。
 
さらに柳田によると、外国文明の輸入によって都市に新しい文化が栄えることで、都市は文化的な優位性を確保し、地方を従えると いいます。
“新しき芸術、宗教、製造品、 一切の新知識、そうしたものを持って地方に望むとき中央都市の地位は非常に優秀となる。これ等 文化の地方普及は経済的には、地方の財力を都市に吸収して己れを富まし、精神的には都市崇拝の迷信的思想を地方人の頭に発生せしむる。”
 
確かに、グローバル化した時代に生まれ育った世代である私たちは、地方よりも東京が、東京よりもニューヨークが優れている、そ ういう観念を当たり前のように抱いています。
そして皆、上京したり、留学したりしています。向かった先には、より良い暮らしや成長の場所があることを信じているからです。
 
しかし、これは海外との取り引きが活発な時代だからそうなのであって、柳田のいうように、ある種の迷信なのでしょう。
都市に移り住んだからといって、豊かな生活や仕事が保障されているとは限りません。
実際、統計によれば地方より都市の失業率が高いというではありませんか。
 
以上のように、柳田の推察は、そのまま現代のグローバリズムにも当てはめることができます。
とりわけ、東京の状況を描写した部分は、現代の方がより当たっているのではないかと思うほどです。
“見よ!  東京人の外国文化輸入の忙しさよ。あらゆる贅沢品、美術工業品は言うに及ばず、日常生活の実用品、食料品に至るまで、昨日の流行品は、 もう今日の古物である。かかる状態は物品のみではない。思想も趣味も主義も主張も新しきを求めて、とどまることがないのである。而も、この流行変転の傾向は日を追うて急進に回転しつつあるのである。”