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選択の自由~近代合理主義の迷妄~

山田一郎(47歳、神奈川県、国家公務員)

 

我々が生きるこの社会には、「選択の自由」があると誰しもが思っている。誰しもが自分の好きなものや正しいと思うものを選択できる、それは我々が得た権利であり、それは揺るぎのないものである、と。 確かにそれは正面から否定できるものではないし、否定するものでもない。何を食べるか、何を着るか、どこに住むか、どんな仕事に就くか、誰と結婚するか、基本は自由である。これは近代に入り、人類がその価値観を禁止の体系から自由の体系へと変えてきたことによる。

我々は近代に入って「選択の自由」を手に入れた、それは我々を「幸福」へと導くものになっている、と一般的には考えられている。
なるほど出自や身分によって、飲食や身なり、住まいや職業や結婚が制限されることは、もうない。これは素晴らしいことではないか、と考えられている。
だが、こうした「選択の自由」が我々を「幸福」へと導くという考えの中に、逆に我々を「不幸」へ導くという逆説がありはしないか。

「選択の自由」があるといっても、それは必ずしも叶えられるとは限らない。
他人と食事を共にする場合であれば、自分の好きな店に入るということはできないかもしれないし、場に即した服装を選ばなければならないこともある。
住まいも収入と相談しなければならないし、通勤時間も考慮しなければならない。
職業も自分の能力との兼ね合いや、会社側の採用に関する意向もある。ましてや結婚ともなれば、相手の気持ちも伴わなければならないことは明らかである。
にもかかわらず、我々は「選択の自由」があると思っている。いや、正確には、そう思い込まされているのだ。

曰く、計算可能性、予測可能性は、技術の発展とともに高まり、我々は合理的な選択を行うことができ、我々にはその自由がある、我々は過去に学び理性的に行動することができる、努力は人を裏切らない、何度でもチャレンジすることは可能である、等々。
こうした価値観に、我々は知らず知らずのうちにとらわれている。

計算可能性や予測可能性を高めることは必要であろう。合理的な選択も必要であり、理性的になることも必要である。努力することも必要であり、何度でもチャレンジすることも必要である。
だが、それでも不可能なことがあり、得られないものもある。そのときに我々を救うものは、こうした価値観ではない。
諦念の中にふと差し込む一筋の光、巡り合わせの縁、与えられた使命。我々を救うものは、こうしたものである。