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嗅覚

鈴木カオル(32歳、東京都、トレーダー)

 

弁当箱を清掃する会社に行った際、汚臭に嘔吐したことがある。大量の食べ残しが腐ったもので、死体の腐敗臭に似ていると後で知った。幸い、親切な社員の方々には気持ちよい「におい」を覚えたので、記憶が再現される時にはなるたけそちらに切り替えている。

何かと付き合うと、良悪問わず、比喩的な「におい」を不思議と感じる。心の「嗅覚」とも呼ぶべきこの作用が印象や認識の別名であるなら、それは舌を肥やすのと同様、心地よい「かおり」を嗅ぐ為のものとみるのが一番腑に落ちる。異臭はその経験から自動的に嫌悪されるからだ。
ただ、一旦腑に落ちてしまうと、汚臭を殊更嗅ぎ取りに行く、日本社会の不気味な傾向にも気づく。「臭いものかぎたさ」を動機とした野次馬的言説であればある程「知性」とされ、一目置かれさえする文壇や言論界の異様さにも。

坂口安吾は武士道を、敏感な嗅覚で悪徳を知り抜いていた武人が、人性や本能の防壁・禁止項目として案出したものと見た。その武士道が滅んだ以上、安吾は「正しく堕ちる道」を堕ち切って浮上せよ、人間の復活はそこにしかないと主張した。
以後、日本は実際に、防壁・禁止項目を捨てた、赤裸々な堕落の道を堕ちてきたと言えよう。それがしかし「臭いものかぎたさ」の猖獗に帰結し、これがもし人間の復活だったなら、生きよ堕ちよのかの名文に、残念ながら全面的同意はできそうにない。
堕落し切った先に価値を見る思想的根拠は、人間の暗部を真実の端緒とする、おそらく自然主義と脈を通じた私小説的態度にある。だが「嗅覚」の本来に引きつけると、この態度が、空理空論を防ぐ世間智以上の意味を担保したとは到底思われない。「臭いものかぎたさ」の堕落は、他を圧倒する死臭に行き着くまで歯止めがきかないからだ。ニコチン中毒宜しくわざわざ鼻を向けるのは、忌避意識を引っかかれる内に生じた麻痺を、世間智にかこつけてリアリズムと錯覚したものでないか。
自然主義と微妙に距離を置いた漱石の言葉を借りれば、「いかなる、うつくしいものを見ても、いかなる善に対しても、またいかなる崇高な場合に際してもいっこう感ずる事ができない」「『真の一字』を偏重視するからして起った多少病的の現象」を、私たちは常識と取り違えやすい。消費の冷え込みとどこか通底するこの奇妙なやせ我慢は、醜悪な人性の暴露に偏執する文学と、国史を捏造まがいに罵る歴史認識を筆頭に、非生産的な自虐を量産する「価値観のデフレ」として定着したように思われる。不自然な程長く文豪が出現しない現実は、その象徴でなかったろうか。

平成を通じ、所謂「保守」の立場は人口に膾炙し、MMTもその中で注目されている。これらの方向は間違ってはいないだろうが、揺り戻し的な性格を色濃く帯びた一連の流れを思うと、その制御棒又は立脚点として、「デフレ」を根源から断つ「嗅覚」が同時に考えられるべきでないか。即ち、心地よい「かおり」を存在に認め、称える志である。
難しいことでは全くない。昔憧れた『ぐりとぐら』のカステラでも、車窓に一瞬見えるお洒落な建物でも、家族間の何気ない感謝でもいいのだ。戦後史の水面下で切実に求められてきたのは、それら少しでも心地よい「かおり」を周囲に印象し、生きるに値する現実を再編成する、童話めいた批評的志向そのものではなかったのか。
存在が否応なく目の前に在ることの不快に思考が至れば、臭みのない存在などない。その際、境界で存在と対峙すれば、人は臭い筈の存在に対しどうしようもなく負わされた敬意、信仰を自覚する。凡俗を生きる限り、意識はそこで存在に折り返し、仏語で言う「妄想(もうぞう)」をあえて引き受け、カステラや車窓や家族に向けた肯定の「演技」を真剣に探る他なく、知的生産の本陣・試論(エッセイ)はここにしかあり得ない筈なのだ。

存在とせめぎ合い、世界を正しく捉える先了解として、保守思想は肉感される。これに回帰するに際しては、自覚的でさえあればすぐと知られる人間的な「かおり」を愛してみせる機会——それを一つでも増やすことが、最も大切に思われるのである。