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改題第12号(通巻第90号) 読者からの手紙

学問と恋愛

人間は頭の中でつくり出した観念にもとづいて現実を生きているものです。この観念をつくり出すという能力は、人間に特有のものだと思いますが、使い方次第では毒にも薬にもなるのでしょう。

 一方では、科学的な理論や哲学的な思想などの優れた観念を発達させることで、社会に利益をもたらすことが出来ます。観念の力がなければ、高度な文化も都市も築くことはできなかったと思われます。

しかし、他方では、現実にそぐわない観念を抱くことで、社会に悲劇や災難がもたらされることもあります。実際、根本的に間違った経済理論や政治哲学によって政府が運営されてしまったら、社会は不安定化し、情勢は混乱することでしょう。

もっとも、観念が悲劇をもたらし得るというのは、政治経済にかかわらず、私たちの生活にも当てはまることだと思われます。とりわけ、恋愛というのは私生活を混乱させうるものです。ロマンスほど人間を現実から引き離そうとする観念はないといって良いかもしれません。

 恋愛なんていうのは人間の情緒にもとづく営みだから、政治学や経済学とは全く別次元ではないかと思う人もいるでしょう。たしかに、学問というのは情緒ではなく理性にもとづいた営みに思われます。

しかし、理性というのは、何らかの条件や仮定が与えられた上で一般的な結論を導くために活用するものです。その土台となっている条件や仮定までも理性で導き出そうとしたら、合理主義になってしまいます。

したがって、学問の土台となる論理的基盤をつくるには、どこかで理性でなく情緒に頼らなければいけない局面が出てくるはずです。高名な数学者であった岡潔も、小林秀雄との対談で、数学という理性第一の学問であっても、その営みの中心にあるのは情緒だという見解を示しています。
 
豊かな情緒がなければ、恋愛だって上手くはいかないでしょう。一つひとつの言葉遣いとか、デートに誘う場所とか、センスがなければいけません。ここでいうセンスというのは、オシャレでイケてるとかいう意味ではなく、相手の機嫌や人柄を察知する感性に近いものだと思われます。つとめて情緒をはたらかせなければ、現実の姿は見えてきません。相手の境遇も理解せず、勢いで気持ちをぶつけるのは、ただの間抜けです。
 
学問だって、現実の姿がまるでわかっていなければ、ただ机上の空論に終始するだけです。一例をあげると、信用創造(貸出しが預金を生むこと)をわかっていない経済学者がいかに的外れな議論をしてしまうかは、周知のとおりかと思われます。
 
このように、学問も恋愛も、豊かな情緒がなければ成就する見込みはないという点で同一の営みであるといえます。そして、いずれも間違った観念を抱くことで何らかの悲劇を招いてしまうものです。
 
つらい失恋は個人的には悲劇です。いやでも現実が突き付けられるのですから、認めざるを得ません。それまで描いてきた理想を一挙に放棄することとなり、きびしい思考が迫られます。失恋ほど自分の愚かさを思い知らされる出来事はないでしょう。
 
それに対して、学問の営みでは、個人的に起こる悲劇というのはそんなにありません。たとえ間違いを認めざるをえない場面でも、詭弁を弄してごまかすこともできれば、自分と同じ意見をもつ集団の中に逃れることもできるでしょう。
 
だから、学問をやっていても、恋愛ほど自分の愚かさに気づかされることはないのかもしれません。学問と恋愛ではこの点に違いがあります。

もっとも、現実を受け入れないまま観念の世界に甘んじた研究をしていたら、良い学問はできないでしょう。良い学問をするには、絶えず自分の観念と現実の世界の間に折り合いをつけていく必要があるのでしょうが、そういう営みは、恋愛のような人間味のある生活経験がなければ上手くいかないのだと思われます。

ある人がどういう学問をしているかは、その人がどういう恋愛をしてきたかに左右されるということです。

投稿者 : 

  • 佐々木広(23歳、神奈川県、学生)

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