現代日本のキーワード:コロナウイルス編

吉田真澄(63才、東京都、会社員)

 

●お前こそ、STAY AT HOME
 すっこんでろ!とでも訳すべきだろうか、今回の新型コロナウイルス禍で誤った判断にもとづく誤ったメッセージや指令を発し、未だ改めることをしない首相や知事や専門家やコメンテイターに捧げる言葉。未知の恐怖に立ち向かうのだから、ある程度の、過剰自粛は仕方ない。しかし、日々明らかになるウイルスの相貌や積み上げられていくデータをもとに、誤りがあればそれを認め、訂正し、方針を転換するべきなのだ。ところが、お受験期の偏差値小僧みたいに、致死率における国際競争に打ち勝ち、自らの名声を高めることにのみ固執する学者がいるとしたら、久しぶりの恐怖コンテンツの威力に目を見はり、それがもたらす視聴率という恩恵に目を細めているメディア関係者がいるとしたら(そんなことは、ないはずだ。と願いたいが…)許せない。もし、そんなやつを見かけたら、声を上げよう。お前こそ、一生、ステイホーム!と。

●リベラル・ロックダウン
 志村けんさんが亡くなった3月下旬頃からだろうか。世論や私の所属するグループ・メール内で盛んに、日本のロックダウン(都市封鎖)が遅すぎるとか、ヨーロッパや中国はこんなに厳戒態勢を敷いているのに、といった声が聞こえてくるようになった。でも不思議だったのは、そうしたコメントの多くが、ふだん割りと束縛を嫌い、自由や個性を重んじる、どちらかといえばリベラルなイメージの人物からのものだったこと。それと、ふだんから几帳面で折り目正しいタイプの人々。なるほど、これがかつて、あのハンナ・アーレントが指摘したファシズムの空気(『全体主義の起源』)というやつか、と実感した。やがてそれは、自粛期間中に芸能人がどこで酒を飲んでたとか、河原でテント張ってる人々にクレームをつけたりするような醜悪な姿(自粛警察と呼ぶらしい)へと変貌するのだが、彼らには志村けんが他者を思い、身体を張って示した「粋」なんて一生、理解できないんだろうなあ。歴史のオーダーが示す教訓は、絶対主義→全体主義じゃなくて、絶対主義→自由と解放→全体主義(E・フロム『自由からの逃走』)なのにね。

●日本の器展
 北海道は素晴らしい、大阪は頑張っている、いや東京だって危機感を募らせている。さらに、首相だって懸命に努力している等々。関東・近畿・九州圏の都府県に緊急事態宣言が発出された頃(4月上旬)になるとメディアは、こんな話題で盛り上がっていた。中央政府自体が、あの非主体ぶりだから、地方の首長たちが独自の対策モデルを打ち立てて頑張ろうとするのも無理はない。しかし、この時点での疫学の基本である集団免疫や交差免疫反応や自然免疫に関する彼らの知見の希薄さは、目を覆うばかりであった。災害からの出口戦略には、大局観が必要だ。そして、大局観を身につけるには、広範な知識はもちろん、長い経験から醸された人生観や哲学が必要だ。ここでは、誰が良くて、誰がダメということにまで言及しない。だが、ほんの一部を除いて、つまり総じてペケ。かつて表現者クライテリオンで『安倍晋三この空虚な器』(2019年11月号)という特集があり、この特集の各論説が描きだした「虚ろ」の姿には目を瞠ったが、はからずも今回の新型コロナウイルスが暴いたのは、まるで「日本の空虚な器展」のように全国に広がっている「虚ろ」の姿ではなかったのだろうか。

●イノセント芸
 モジュール化(交換可能な構成単位に分解して標準化すること)の進展するグローバル資本主義の極致で世界の人々が身につけた芸風。女性タレントはもちろん、コメディアンから知識人、役人、政治家にまで広範に浸透。文字どおりINNOCENT(無罪で、潔白で、純潔で、あどけない)な素ぶりで責任を回避しつつ、人々から好感を得ようとする。自ら、ニュートラルでクセのない交換可能なパーツを演じるのが目的だから、演出コンセプトは必然的にイノセントに行き着く。私は、前述の『空虚な器』が(世界的にも)量産される理由は、こんなところにあるのだと思う。日本のみなさん。イノセント愛は、プライベートな世界だけにとどめましょう。シミだらけの顔に、深い皺を刻んだ毒舌まじりの老師でも、熟成された知恵と経験から的確な判断を下してくれるなら、それでいいではないか。無垢の透き通るような美しさや、あどけなさは、未発達の子どもに任せておくのが、健全な大人というものだろう。