「平和」は当たり前じゃない

菅谷勇樹(32歳、北海道、会社員)

 

本誌9月号の新連載「自衛隊とは何者か」を読んで思ったことがある。それは現在の日本人が一般的に抱いている戦争観、あるいは平和観とはなにかという疑問である。元陸上自衛官である磯邉精僊氏の主張は的を射ており、日本の将来の不安を暗示させるものだと思った。
戦争とは、ときに破滅を覚悟して行わなくてはならないものだ。街は廃墟と化し、多くの人たちが血を流して倒れ、親とはぐれた子供が泣き叫ぶ。そういったことが、普通に起こり得る。
だが、そんな光景をほとんどの日本人は見たことがない。日本における「戦後」とは太平洋戦争が終結した後のことだ。以降75年間、日本は血を流す戦争というものをしてきていない。私たちは想像でしか戦争を語ることができない。

太平洋戦争以後、二度とこのような惨禍の悲劇が起きてはならないと皆が主張し、「平和主義」の考え方が絶対視された。メディアや教育機関が率先して訴えたのは、軍事力を否定した平和主義だった。それまでの日本の軍事力でアジアを解放しようと訴えた「八紘一宇」の精神とは真逆のものだ。
防衛費が国家予算の1%を超えただけで、メディアが「軍国主義の復活だ」と批判を行い、近年までは憲法改正の議論すら半ば禁忌とされてきた。それは過去に日本が行った侵略行為に責任があるのだから、仕方がないという声もあるかもしれない。だが、日本が積極的に戦争を行っていたのは、帝国主義の時代だった。気を抜けば、いつ自国が侵略されるか、植民地化されるかわからない時代だったのである。

そもそも「平和主義」とはなんだろうか。かつての首相だった佐藤栄作は「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」の非核三原則を説いた。さらにはそのことでノーベル平和賞まで受賞した。現在でも多くのメディアは核兵器の否定、廃絶を積極的に訴えている。しかし、仮に核廃絶を実現できたとして、その先に待っているのは本当に「平和」なのだろうか。東西の冷戦が熱い戦争にならなかったのは、核の抑止力の影響だった。核が無くなったあとに起こるのは、パワーバランスの崩壊だ。かえって戦争が起きやすくなる懸念もある。現実問題、核兵器が誕生する前でも、戦争は頻繁にあった。平和は国同士の軍事力の均衡によって、保たれている側面が大きい。「核のない世界=平和」な世界とは限らない。頭から「核兵器がなくなれば戦争はなくなる、平和になる」と信じこむのは危険である。

日本人は「戦争」に対して、盲目になっている。そして、同時に「平和」にも盲目になっている。そう考えざるをえない。磯邉氏が主張している国民の自衛隊に対しての無関心さはそこにあるのではないかと思う。平和をまるで空気のように感じてしまっているからこそ、自分の身近に自衛隊の存在を感じないのではないか。空気がなければ人間は生きていけない。空気が大事かと問われば、皆一様に「大事だ」と答えるだろう。だが、日々空気に対して感謝をし続けている殊勝な人は、おそらくほとんどいないはずだ。そこにあるのが、当たり前だと思っているのだから。
もし、それが当たり前でなくなったのなら、脅かされそうになったのなら、初めて真の意味で私たちはその大切さに気付けるかもしれない。なにか方法はないのか。自分に出来ることはないのかと考えるかもしれない。だが、そのころには、すでに遅いということになっている可能性もある。
国の安全保障の問題とて、それと同じことではないのか。
今、平和が当たり前に存在するからといって、今後もずっとそこにあり続ける保証などない。それだけは、頭の中に入れておくべきだと思う。