卵子が精子を「選別」する……。そんな研究結果をマンチェスター大学とストックホルム大学が公表したという。卵子は化学物質を放出し、特定の精子にとってのみ動きやすい環境を作る。結果、特定の精子のみが誘引され、「選別」が完成される。幾億個という精子のうちでたった一個の精子が選ばれ、活かされ、受精できるのだ。
個人のパートナー探しが第一関門とすれば、この遺伝子の選別は第二の関門といえないか。妊娠から出産に至る一連の生殖はこれら関門を越えて行われる奇跡の連続であり、その結実である純真な赤ちゃんはまさに奇跡の賜物であろう。
デザイナーベビーや代理母出産の倫理的課題が解けないうちは、このような自然生殖の理を踏まえて、少子化問題を論じる必要がある。少子化問題において最大の要因としていつも挙げられるのは経済的不安だ。つまり、子どもを育てるのには金が掛かる。自らの生活だけで精一杯なのに子どもを養えるわけがないと。現に国民負担率(国民所得に対する租税と社会保険料の負担割合)は平成二十年代後半から上昇し続け、過去最高を更新している。所得は上がっていないのに、必要経費が上がり続けているのであるから、経済的余裕は無くなるわけである。更に、平成以来の教育費高騰を受けて多くの適齢期の成人は奨学金という負債に苦しみ、これが若年層の未婚化に追い打ちとなっている。
経済的余裕がない中で子どもをもうければ共倒れではないか。そういうわけで多くの人々が子どもを持つのに躊躇しているのだ。
このような状況で見られる標準的なマインドセットは子どもは負債というものだ。子どもを持つこと≒金銭的負担という思考回路がまず出てくる。確かに養育にはそれなりの金が必要だ。生命体を維持する経費。当然親にとっては経済的負担になる。しかし、その負担は方向を変えて経済利益として社会に還流する。つまり新たな生命体が新たな需要を生み出すのだ。この新たな需要の創出という観点は強調に値する。なぜなら、供給過多により、物余りが進行し、物の価値が下がり続けるデフレ下において、これに歯止めを掛けるには、供給の受け皿となる需要の創出が欠かせないからだ。換言すれば、子孫形成は未来にわたる需要の創出なのであり、日本国がデフレを脱却して成長するにあたって必要不可欠な営為なのだ。
少子化解消はデフレとの戦いに有効なことはもとより、国家共同体の維持にとっても不可欠であることは言うまでもない。子を育むことは即ち親子の絆を育むことであり、それそのものとして共同体の礎となる。日本国を国家共同体として存続させていくにあたり、政府は人口政策として少子化解消に施せる限りの全てを尽くすべきだ。
まず、妊娠出産のために負担を強制されざるを得ない女性に対して、肉体的・精神的な負担軽減を確約することは必須だ。女性は妊娠出産を強制される性であるが故に育児に加えて、家庭管理業務をも受け持つ傾向にあるが、共働きが当たり前となっている社会において賃金労働まで加えると女性にかかる負担が重くなりすぎる。女性の社会進出を促進するというのであれば、妊娠出産を強制される女性性と並行的に考えて、男性に育児や家庭管理業務を学び実行できる機会を社会が強制的にでも設け、家庭における業務負担の公平化を目指すべきだ。そうすれば育児や家庭管理業務が賃金労働の足かせとならなくなり、女性が賃金労働を含む社会活動により多くの時間をさけるようになるし、過重な負担を嫌煙して結婚や育児に積極的でない女性に訴求することもできる。
さらに、女性は妊娠出産の過程で賃金労働ができなくなるために社会保障給付にしろ配偶者扶養にしろ、他の協力を得ねばならず、それがゆえに共同体からの支援や周囲の協力がいかに大事なことか実体験として学ぶ。他方男性は全く同一の経験は得られないわけだが、社会政策として育児や家庭管理業務を学び実行できる機会が与えられれば、家庭を運営していくにあたって、それらの業務がどのようなものであり、当事者としての協力行為がいかに大事になってくるかということがより理解していけるのではないだろうか。それは個人主義に偏重しがちな現代社会にあって共同体の意義を考え直すきっかけにもなるだろう。家庭という共同体の基礎が正しく理解され上手く運営されるのは、共同体として維持されるべき国全体にとっても有益になるだろうからこれを支援しない手はない。
翻って、子どもを持つにあたって結婚する相手が見つからないという適齢期の声もある。第一関門の伴侶探しでそもそも躓いてしまうのだ。結婚が子孫形成の前提となっている現在の日本社会において、結婚できないことは子どもを持てないことと同義である。結婚が困難になっている原因を探し、状況を改善する。もしくは、前提となっている結婚制度や扶養概念、里親制度等の見直しを行って、結婚していなくても子どもを養育していけるような仕組みを作っていくべきだ。そうして、子をもうけて家庭を作りたいと願う全ての人々にその可能性を広げていくことが重要だ。
少子化対策にかかる具体的な制度構築と運用に比して重要になってくるのは、子どもは負債という価値観を、子どもは宝(財産)という価値観へ転換すること。つまり発想の転換が不可欠となる。この発想があればより多くの人がより多くの子どもを希望することになるだろう。思想的導きがなければ社会秩序を維持形成するのは困難なのであるから、この思想の修正を高く掲げると同時に結婚・子育て支援環境を整備していかなければ、深刻な少子化問題は解決しないだろう。
また、少子化問題について経済面を強調して論じると、戦後は貧しくあっても人々は多くの子どもを作ったと批判されることがある。たしかに戦後のベビーブームは、焦土と化した国土において発生した。人々は財産を失った上に、供給不足によりハイパーインフレにさえも苛まれていたのだ。物資調達も難しい中、彼らはなぜ子どもを増やし続けたか。「産めよ、殖やせよ国のために」という戦前からの国策と強固な共同体意識、さらにはそれらの根本に子は宝という価値観があったからではないか。子が宝であるとしたら、焼け跡にあり何も持たない人々にとってそれはよりかけがえのないものであっただろう。
これらの基礎的思想や国家意思が有耶無耶にされているうちは、経済問題はもとより、少子化問題は決して解決しないのではないだろうか。
今、日本社会は長年にわたるデフレに苦しみ、それから逃れる道を探し出せないでいる。国の借金が云々と出し惜しみしている間に傷口が広がりつつある。借金を気にして、未来への投資を止めてしまえば、ただ貧弱になるばかりで、荒れ野に赤ちゃんを放り出すようなことになる。そんな未来が待っているとしたら、いったい誰が子を生み残したいと考えるか。このデフレ下の日本において、倹約の名のもとに実体社会への投資や消費を止め、需要の創出を阻む者は共同体の破壊に加担しているのだ。実体経済が回らなければ、共同体は四肢から壊死し、やがて動けなくなって死んでしまうのだから。辛うじて残された次代の者たちが共同体の亡き骸を目の当たりにして無借金を喜ぶわけもあるまい。(これまでの共同体の蓄積は失われてしまったのだ!)
国のため、社会のため、家族や周囲の人々のため。どんな単純なものでもよい。思想的導きのもと、大々的に投資を行い、需要を喚起し、経済を回して、活発な社会を取り戻す。そうしてこそ未来への期待を取り戻せるのだ。明るい未来への期待があれば、人々は貧しくても未来を志向する。赤ちゃんは未来そのものだ。子どもへの投資は未来への投資なのだ。それをまず実行してみよう。そうして、活き活きとした新たな血を社会へ還流させれば、デフレ打破と共同体維持の一挙両得ではないか。
一人ひとりは「選ばれて」生まれてきた者なのだから、それにふさわしく、皆が公平に尊重され、未来への希望をもって生きていく価値がある。われわれは負債ではない。われわれ一人ひとりが選りすぐりの宝(財産)なのである。みずからを破壊する偽善たる倹約に囚われてはならぬ。われわれの中に価値を取り戻さなければならぬ。まさに今こそが価値の転倒を起こすべき時である。
林文寿(岐阜支部)
2024.10.15
御子柴晃生(農家・信州支部)
2024.10.15
吉田真澄(東京支部)
2024.10.15
羽田航(53歳・派遣・埼玉県)
2024.10.15
川北貴明(34才・芸術家・大阪府)
2024.10.15
九鬼うてな(17歳・生徒・京都府)
2024.10.15
近藤久一(62歳・自営業・大阪府)
2024.10.15
前田一樹(信州支部、39歳、公務員)
2024.07.25
奥野健三(大阪府)
2024.07.25
たか(千葉県、41歳、イラストレーター)
2024.07.25