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【続き】クライテリオン3月号特集1座談会「皇室論」を国民的に加速せよ!

啓文社(編集用)

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クライテリオン最新号での特集座談会(「皇室論」を国民的に加速せよ!)の続きを公開いたします!

是非、ご一読ください!

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「皇室論」を国民的に加速せよ!

施 光恒×
藤井 聡×
柴山桂太×
浜崎洋介×
川端祐一郎

(前回の続き)

皇室を自分の問題として捉えない知識人
川端▼皇位継承論において、男系・女系を問わず「どこに正統性があるのか」を真剣に考えている論者の話が面白くて、僕もまさに正統性の問題が気になっていたから、浜崎さんの話を興味深く聴いてました。
 浜崎さんの挙げた③の宗教的正統性についてですが、宗教的正統性が必要だからこそ男系だ、という見解もあります(新田均氏)。皇室の主だった祭祀は祖霊信仰の一種で、天皇は皇祖神つまり皇族の先祖を祀っているわけですが、もともと神道の中に祖霊を祀る資格はその祖霊の(男系の)氏族にしかないというような考えが存在したらしく、それを示唆する神話が確かに日本書紀にも出てきます。ただ、もはや祭主の男系継承が維持されているのは伊勢神宮と出雲大社ぐらいしかないみたいで、しかも出雲国造の人々は国つ神系ではなく天つ神系の氏族らしいのでややこしいのですが、日本神道の二大巨頭のような神社が血統原理を維持しているのは興味深いです。
 ②の水平方向の正統性には、複雑な問題がありますね。福田恆存の「象徴を論ず」というエッセイを読んだら、象徴天皇制の「象徴」という言葉はいったい何を意味するのか分からないと批判していました。また、日本の知識人は皇室論を語り始めると素朴な実感を封じ込めてしまって、常にどこか自分に嘘をつきながらしゃべっており、言葉や立場に弄ばれているのだとも言っていました。なるほどと思って、僕は改めて自分にとって皇室とはどういう存在だろうかと素朴に問うてみたんですが、するとやはり「象徴」というような実感は持つことができなかった。我々の生活や存在が、皇室によって「象徴されている」とは感じないんです。
 では自分の中で皇室がどのような現れ方をしてくるかと考えていくと、例えば伊勢神宮に参拝するとか、古事記・日本書紀を読むとか、万葉集や古今集の和歌を覚えてみるとか、そうやって意識的に歴史に踏み込んでいった時に常に不可避的に現れ、そこに鎮座している存在が皇室だというような印象を持つんです。逆に、我々のリアルな生活と皇室は切り離されているように感じるし、それで良いと思う。批判を承知でいえば、水平方向の「今生きている国民の象徴」としての天皇の正統性は大して重要ではなく、国家の歴史と宗教感覚の正統性を担うことこそが本質的ではないかと。水平的にはむしろ、遠い存在で良いと思うんです。
 『昭和天皇独白録』を読んでいて、感動した場面が二つあります。ポツダム宣言を受託するか否かの議論の際に、軍人たちは「戦争犯罪人の処罰を連合国に委ねる」という条項を理由に宣言を拒絶すべきだと主張していて、それについて昭和天皇は「情けない」と批判している。軍人の保身ですからね、それは。天皇自身は、仮に国体護持が叶わなかったとしても、日本民族を守るために宣言を受諾すべきだという立場です。
 もう一つは、昭和天皇がポツダム宣言を受諾すべきだと考える決定的な理由として、伊勢神宮の神器を敵に奪われるわけにはいかないというのを挙げているところです。実際、昭和二十年七月に伊勢周辺が爆撃されていて、天皇は「皇祖からお預かりした神器」が敵の手に渡ることを非常に恐れていた。そしてそれを守るためには、自分の地位も命も顧みないという態度なんです。最後の最後は身辺に置いておいて自分が守るしかない、それでもし米軍が上陸してきていよいよダメとなったら、神器と運命をともにするのだとおっしゃっている。その判断基準のあり方に、国体とはこういうものかと気付かされたような心地がしました。もちろん、赤子たる日本民族にこれ以上の犠牲を強いるわけにはいかないとも言っておられるわけですが、天皇にとって国体護持とは神器を守ることなのだというところがむしろ感動的だった。皇祖から授かった神器を守るというのは、僕らの生活や人生とはかけ離れていて、我々は当事者意識の持ちようがありません。しかしその、天皇には天皇の「守るべきもの」があるというところがむしろ美しく、価値あることのように僕には思えました。

三種の神器の鏡は天皇の象徴
藤井▼これで一通り各々のお話をいただいたわけですけど、皆様方がおっしゃったこと一つ一つそうだなと思わないことは一つもない、と改めて感じています。その上で、男系・女系をどうするのか、という点についていうと、個人的には浜崎さんがウィリアム・ジェームズの議論を引用しながらおっしゃった考えですね。つまり、具体的な選択として可能な限り男系男子の男系論の持続を考える。そしてもはやこれまでとなった時には女系容認をせざるを得ないだろうと。
 これは柴山さんも恐らく多くの国民の間にそういうコンセンサスができてるんじゃないかと指摘されましたが、それと同じじゃないかと思います。そうすると、ジェームズの議論と今の国民的気分の視点からいうなら、「女系容認論の絶対反対論」つまり「女系天皇絶対否定論」は否定されている、ということはいえるものと思います。なぜなら、女系天皇絶対否定論を採用し、男系論が絶対だとなった途端、側室制度のない今、皇統断絶の危機が一気に高まることになるからです。だから、皇位継承を考えるなら、男系論の皇位継承をやるだけやっていよいよとなったら、少なくとも消極的に女系容認を持ち出さざるを得なくなるわけです。少なくとも僕はそう考えますから、僕の立場はどうなるのかといわれれば、女系を消極的にでも容認するということから消極的女系容認論者ともいえる一方で、可能な限り男系を続けると言っている点では男系論者だともいえるのではないかと思います。
 そういう私の認識と川端君が紹介した昭和天皇のご判断、つまり皇統が途絶えようとも伊勢神宮の神器を守ることが大事であるという判断は実は非常に近いように思う。いずれも皇統は当然大事だからそれを守るために全力を費やすが、仮に皇統が途絶えたからといって全てが終了するわけではない、仮にそうなったとしても護るべき伝統を守るのだという構えがあるからです。柴山さんが、一般の多くの方々も当方と同様に「ぎりぎりまで男系、致し方なければ女系容認」と感じ始めているとおっしゃいましたが、恐らく充分に議論すれば、心ある方なら恐らくはほとんど全てが少なくともこの考え方に至るんじゃないかというのが僕の感覚です。
柴山▼いま神器の話が出ましたが、「無私」ということでいうと、三種の神器の中で一番大切なのは鏡とされていますね。古事記によると、天孫降臨に際して天照大神が鏡を「我が御魂」と思いなさいと授けた。以後、鏡は神器の中でも別格の扱いで、伊勢神宮にも、皇居の賢所にも祀ってある。剣と勾玉は智慧と慈悲の象徴とされていますが、鏡は天皇そのものを象徴するものですね。鏡はそれ自体で何かを発するのではなく、誰であれ見る者の姿を映す包摂性を持つと同時に、見る者に自らを省みる契機を与える。鏡それ自体は大陸から伝来したものなのでしょうが、古代の人はこの伝来品に深い意味を見出したのだと思います。
 すなわち鏡は曇ってはならず、「私性」を持ってはいけない。「無私」というのは皇室にとって非常に重要な価値観であり、役割です。
 ところが現代では、天皇が「私」というものを隠すのが非常に難しい。日々の振る舞いがメディアに映し出されることで、そこに「私性」を読み込まれてしまうという状況下に置かれていると思うんです。眞子様の問題で露呈したのは、そのことだったのではないかと思うんです。
 「開かれた皇室」とか「週刊誌天皇制」といわれましたが、それとともに天皇の公務も変わってきています。ことに平成の天皇は慰問や慰霊をよくなさって、日本全国はもちろん、海外にまで訪問されています。
 もともと天皇は叙任権力で、世俗の人たちにしかるべき地位を授けるという権威を持っていましたが、昭和の敗戦以降は社会的弱者に手を差し伸べて、癒したり慰霊したりする権威に変わってきている。
 別の言い方をすれば「弱きものの味方」になった。これは政治思想的にいうとリベラルの側に立つということになる。もちろん天皇はご自身のお考えを決して公にしませんが、国民の側が政治的な意図を読み込み、賛成したり反対したりということになりやすい。「無私」の存在にとどまることがとても難しい状況です。
藤井▼天皇は国民のために祈ってくださるというのが、「無私」の存在の象徴ですよね。ですが、小室氏の問題を契機に、将来の天皇が国民のために「無私」で祈ってくださり続けるのだろうかという憂慮を密かに感じている国民が出てきてしまっているようにも感じます。
施▼天皇は「無私」の存在でなくてはならず自身の意見を表明すれば、国民が分断されてしまうのではないかという懸念は先に述べました。
 しかし、その「無私」を保つためには周囲のサポートが不可欠です。本来なら皇族、宮内庁、学習院、神社関係者などが主体となってそのための体制をつくらなければなりません。
 学習院を改革すべきだと思いますし、宮内庁にしても帝王学的な教育をもっと推奨してほしい。

誰も注意しなかった「天皇の孤独」
浜崎▼先ほど川端さんが福田恆存に言及されましたが、福田の象徴天皇論は、実は施さんの懸念と非常に近いものなんです。
 福田恆存が象徴天皇の「象徴」の意味が分からないと言ったことの背景には、戦前よりも戦後の方が、天皇が国民から切り離され、より「神(God)」に近くなってしまったという逆説があるんです。どういうことかというと、GHQに立憲君主の立場を奪われ、天皇を支える貴族院を奪われ、皇室の藩屏たる華族を奪われ、国家神道も何もかも奪われ切った後で、「はい、天皇は国民の象徴です」と言われても、何を象徴しているのかが分からない。つまり、一切の地上的なものから切り離されてしまった天皇は、戦前以上に感情移入の難しい「神」のように孤独なものになってしまったのではないかと言うのです。
 国民のために祈る天皇は、もちろん「無私」を求められる存在ですが、祭祀は生身の人間がやっているわけだから、その「無私」を支えるためのサポートや工夫、天皇の「孤独」を和らげ、天皇を国民に媒介する人や制度がどうしても必要なんですよ。
 にもかかわらず、宮家は廃止されたままだし、宮内庁といっても、祭祀に対する理解の浅い近代的な官僚たちばかりだと。こんなことで、どうやって天皇を支えていくことができるのか……、昭和天皇が崩御された時、その皇太子(今の上皇陛下)を見て、この若い人が、この孤独を引き受けていくのか……と、福田は暗澹たる思いに駆られるんです。
藤井▼眞子様のご結婚問題も皇族を「孤独にした」ことに対する一つの帰結ということですね。
浜崎▼おっしゃる通りです。「孤独」だからこそ、国民の人気に支えを求めるしかなくなっていくんだし、その行き着く果ては、三島の言う「週刊誌天皇制」だということになります。「開かれた皇室」といえば聞こえはいいですが、その実態は、本来隠されるべき皇室の「私」が報道され、その物珍しさに国民が群がっているというに過ぎません。そうなれば、皇室も「自由恋愛で何が悪い」という国民の俗情に流されていってしまっても不思議ではないでしょう。
川端▼しかし、いま浜崎さんがおっしゃった福田の説を真剣に考えると絶望的ですよね。要するに公家、華族、貴族からなる「階級」を復活させなければならないわけですが、それは旧宮家を復活させるよりずっとハードルが高い、というかほとんど不可能だと思いますし。今の日本で上流階級といえば、それこそ柴山さんがおっしゃった資本家ぐらいしかいない(笑)。
藤井▼その点、イギリスでは貴族社会が残存している。劣化してきているにせよ。

天皇にだけ聖性を押し付けている国民
柴山▼皇室は、確かに日本文化の象徴的なところがあって、外来文化を取捨選択して取り入れてきた。男系男子継承も、大陸文化を取り入れたものですね。
 他にも、外来文化からいろいろなものを取り込んでいます。儒教だったら忠や考の論理は取り込むけれども易姓革命の論理は排除していく。仏教からは国家護持や慈悲の心を取り入れる。キリスト教からも、一神教の論理に近いものを近代に取り入れています。
 問題は、西欧由来の価値観です。人権思想や民主主義、資本主義など、近現代の価値観の何を取って、何を捨てるのかというところの取捨選択が、皇室制度の存続に深く関係しているように思います。丸ごと受け入れたら、従来の制度と激しい不整合を起こしてしまう。
 外来文化を自家薬籠中のものに作り変えてきた歴史を持つ皇室が、明治以後、急激なグローバル化がもたらす混乱にさらされ続けているという状況がある。
川端▼それとは逆に、安易な取捨選択によってツギハギになっている問題もありますね。福田恆存が別の文章の中で、日本は近代になって西洋からいろんなものを取り入れたが、西洋の君主制や民主主義のシステムの裏には彼らの民族感情や文化感情がセットになって存在しているのだということを見落としてきた、と指摘していました。例えばキリスト教は無視して政治制度だけ部分的に取り入れて西洋化できたような気になり、満足しているけど、そういうやり方は結局うまくいかない。ヨーロッパはヨーロッパで政治・文化・宗教がトータルとして成り立っているから、そういうものとして理解しなきゃいけないし、日本は日本のトータルをきっちり考える必要がある。昔はそれができていたんでしょうけど。
 政治制度にしても君主制度にしても、施さんがさっきおっしゃっていた社会秩序の作り方の感覚や、宗教感覚、歴史感覚とか、全部セットになった「日本」というものをちゃんと考えない限り、小手先の制度改革ではうまくいかない。
柴山▼最も難しいのが、天皇の「無私」だと思うんです。ただ、ここで考えるべきは、天皇だけに「無私」の役割を期待するということだけでいいのか、ということです。国民は好き勝手に暮らしてもいいが、皇室は駄目だというのでは、いずれこの制度は持たなくなる。皇室が「鏡」であるなら、国民の側もどこかで自らを省みるということがなければ、とても続かないと思いますね。
藤井▼今の話を聞いて、西部邁先生の皇室論を思い出したので、少しだけ紹介しておくと、だいたいこういう趣旨のことをおっしゃられてました。
 「日本が近代化でここまでダメになってきちゃったんだから皇室だけがまともに残ってるなんてありえないでしょ、このままなら皇室だって続くはずがない。そりゃ僕だって男子で、皇室の家柄もちゃんと残って続くんならそれが一番いいと思ってるけど、そりゃ続かないんだからそれはそれで何とか続けようってんなら女系容認はしょうがねえんじゃないかと俺は思うけどなあ。天皇がなくても何とかやっていかなければいけないんだから俺たちはさあ」。
 聴いていて非常に説得力のある発言だなと思いました。ただ、いつその男系男子を諦めるかという技術論は西部先生はおっしゃってない。今なのか百年後なのか三百年後なのか、それだけの幅はあるとは思います。がそれにしても、基本的な議論の枠組みとしてはそれしかないんじゃないかと思います。

親子の教育と天皇と国民の関係は似ている
施▼皇室というのは一つの文化的システムだと思います。ですからそのシステム自体が壊れれば皇室制度自体が成り立たなくなってくる。冒頭で述べたように、日本人の心のあり方と皇室制度が今に至るまでうまく合致しているというのが私の持論ですが、日本の子育てにその特徴がよく現れています。
 東洋さんという発達心理学者が中心となって行った日本人とアメリカ人の子育ての比較研究があるのですが、そこでアメリカ人研究者がなかなか理解できなかった日本の子育ての仕方があったというエピソードが紹介されています。
 例えば、野菜嫌いの子供に野菜を食べさせようとするときです。何度言っても子供が食べようとしないとき、日本人の親がどうするかというと「もう食べなくていい」と言って皿を下げてしまう。日本では普通の光景ですが、アメリカ人研究者は「もう食べなくていい」がなぜ食べさせることにつながるのかよく分からなかったらしい。
 東さんは、日本の子育てでは、親と子供の間にまず情緒的な絆をつくり、子供があまりにも言うことを聞かない時にはこの絆を切るよと言って子どもに言うことを聞かせると分析するのです。
 これと同じようなことをアメリカのキャサリン・ルイスという教育学者も言っています。ルイスは、日本の幼稚園や小学校での教育をフィールドとして研究しているのですが、次のようなエピソードを紹介している。
 日本の小学校では児童たちが何度言っても言うことを聞かない時、教師は黙って教室を出ていってしまうことがよくある。そのような場合、児童は教師の言うことを聞かなかったことを次第に反省し、日直などの児童の代表が、職員室まで教師を呼びに行き、教師に謝って一緒に教室に戻る。この効果はしばらく持続し、その間、児童は教師の言うことをよく聞く。このような一連のプロセスが日本の小学校ではよく見られるとルイスは驚きをもって自著に書いています。
 ルイスによれば、日本の初等教育の理想では、教師は児童とまず密接な心理的絆を形成する必要がある。教師は、児童みんなの愛着の対象でなければならない。だから日本の教師は、なるべく子供たちに頭ごなしに命令しないようにしている。低学年から日直や様々な係を決めたり、日々の「目当て」(目標)を設定させたり、「朝の会」や「帰りの会」といった反省会を頻繁に設けるなどし、頭ごなしの命令によらない学級の秩序の作り方を様々に工夫する。
 これらは教師が児童みんなの愛着の対象となり、教師と児童との間に心理的絆をつくり、維持するためなんですね。そして、子供たちがあまりに言うことを聞かない場合、その絆を断つかもしれないよと伝えることにより、子供たちの間に秩序を保とうとする。さっきの親子関係と同じ構造です。
 これは教育の場だけでなく、日本の組織全般にいえることではないでしょうか。つまり、中心にみんなから敬愛される人がいて、その人は命令しない。代わりに、中間管理職的な嫌われ役が日常の組織運営に当たる。組織の大元のまとまりは、中心にいる敬愛・愛着の対象たる人物との情緒的なつながりで維持されている。こうしたものが日本型組織の典型ではないでしょうか。この構造は、皇室と国民の関係でも一緒ではないかと思うのですね。
 ですから皇室をサポートする藩屏がいないと皇室制度は維持できないのは当然のことです。
川端▼皇族の公務負担の軽減がずっと議論されていて、確かにいろいろな点でもっとサポートが必要だと思います。それと関連して、皇族の「自由」という厄介な問題がありますね。これはある意味、継承問題よりも重要だと僕は思っています。今、世間の皇室論の中では、皇族に人権制約的な意味での負担を押し付けるようなことを言うのは、大きなタブーになっていますね。これは保守・リベラルを問いません。大勢は皇室の自由恋愛肯定派でしょうし。しかし、『クライテリオン』が使命として論ずべきことがあるとしたら、まさにこういうタブーではないかと思う。何の責任も負わない私みたいな者が偉そうに言ってよいことではないですが、皇族はやはり大きな「不自由」を背負わざるを得ないご存在であるはずです。不自由を押し付けることなしに、我々は君主を戴くことなんかできない。しかし誰だって負い目は感じたくないから、そういうところをごまかして、当たり障りのない皇室論を語っているのが今の世間でしょう。

。。。(続く)

(『表現者クライテリオン』2022年3月号より)

 

 

他の連載などは『表現者クライテリオン』2022年3号にて

『表現者クライテリオン』2022年3月号 「皇室論 俗悪なるものへの最後の”反(アンチ)”」
https://the-criterion.jp/backnumber/100_202203/

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