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クライテリオン最新号での特集座談会(「皇室論」を国民的に加速せよ!)の続きを公開いたします!
是非、ご一読ください!
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「皇室論」を国民的に加速せよ!
施 光恒×
藤井 聡×
柴山桂太×
浜崎洋介×
川端祐一郎
(前回の続き)
「内容」か「形式」か
浜崎▼その「不自由」とも関係していますが、女系容認論に一つだけ懸念を申し上げると、そのリアリティを支えているものの一つに、愛子天皇待望論がありますね。その声が、小室圭・眞子様問題で一層高まった感があるんですが、それが加速していくと、皇室を支えているものは天皇陛下の「人格」であるということになりかねません。
でも、そうすると、百年、千年単位で考えるべき皇室という「制度」を、つまり、日本人が日本人である限り維持してきた神秘的な「形式」を、能力や人格といった「内容」で自由に変えてしまうということにもなりかねません。
もちろん、その「形式」に実質を与えてきた「藩屏」が消されてしまったことが、そもそもの問題なんですが、しかし、だからといって天皇の「内容」に神秘性を期待するのは危険だと思います。そうでない方が天皇になったらどうするのか。天皇をめぐって、その「内容」が嫌だから支持しないという分裂を誘ってしまう可能性さえあります。
川端▼内容か形式かという論点は非常に重要ですね。語弊があるかもしれませんが、本質的には、天皇個人の資質は問題にしない方がいいという考え方もある。
藤井▼本来はそうですね。
川端▼天皇の地位の歴史的正統性というのは、個人としての資質とは本来無関係です。あまり想像したくない仮の話ですが、例えば将来、破天荒な皇族が増えて皇室の品位が大きく損なわれたとする。一方で国民の中に、君主や貴族も顔負けの気品溢れる人物がいたとする。そしてどちらかを天皇に選べといわれたら、僕は歴史的正統性のある皇族の方を支持すべきだと思う。現代的価値観では嫌われるでしょうが、能力なんかより血統や家柄などの正統性の方が上だというべき場面は多々あって、君主の地位はまさにその一つです。
日本人の“自然”は「知らす」
浜崎▼それにくわえて、今回の特集には「アンチ」という言葉を使っていますよね。何に対してのアンチなのかというと、「個人の自由」に基準を置いた近代的価値観に対するアンチだろうし、それはもちろん、全ての価値を選択的にして、フラットにしていく民主主義や資本主義に対するアンチでもあります。
その意味でいえば、近代主義の果てには、「日本人である」ということさえも自由で選択的なものにしてしまうニヒリズムが待ち受けているわけですが、逆にいえば、それに対するアンチを言うためには、僕たちの中に「日本人である」ことに対する存在的な手ごたえがなければならないということにもなるはずです。
そこで思い出すのは、やっぱり英国の保守主義者エドマンド・バークの名誉革命の評価の仕方なんですね。彼は、英国王室の危機に直面した時、やっぱり最後に頼れるのは「イギリス人の自然」だと言うんです。つまり「本性」としての「ネイチャー」です。
では、日本人の「自然」の中にある皇室とはどのようなものなのか。それで面白いのは、坂本多加雄の議論です。
彼は、大日本帝国憲法第一条、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治ス」が、井上毅の草案や、その後に書かれた『憲法義解』では「しらす」になっていたことに注目し、それこそ権力の所有や支配によって民を統治してきた西洋的伝統とは違う、日本的「自然」、つまり、神意を知り「人々の心を全て、自らの心のうちに映し出すような理想の精神のもとでの統治」のあり方ではないかと言うんです。
そして、さらにいうと、天皇が国民を「しらす」(神意を反映する)ことに対応する国民の側の営みが、天皇を「まつる」ことなんだと(政=まつりごと)。つまり、天皇は神意(民心)を知り、民衆はその実現に向けて奉仕する、その循環を生きることが、私たちの国が“さきはふ”姿ではないのかと言うんですね。でも、こういう日本人の「幸福」のイメージがなければ、「天皇なんかいてもいなくても同じ」という話にもなりかねず、その点、皇室と私たちの生き方との間に、もっと言葉の梯子を架けていく必要性があると思いますね。
天皇主権と国民主権の対立を消化する「ノモス主権論」
柴山▼天皇を国家のどこに位置づけたらよいのかという問題は、明治からずっと問われていることですね。開国以後、グローバルな世界に接続されたことで、西洋近代の憲法を持たなければならなくなった。その中で、主権はどこにあるか明示しなければならないという問題に直面した。
米国のように「人民主権」にすれば君主はお飾りになるし、「天皇主権」にすると文明ルールから外れてしまう。伊藤博文たちは、明治憲法でそこをうまく工夫した。天皇が国を「統治する」とした上で、ここでいう統治は古来の「知らす」の意味であって、西欧的な意味での主権者とは違う、と。
一方で議会が予算と立法に関して権限を持つ議会主義を採用し、その整合性をとるために出てきたのが「国家法人説」や「天皇機関説」だった。国家が法人として主権を持っていて、その機能を天皇と議会がそれぞれ分かち持っている。近代の法律言語に合わせて、天皇は国家の一機関になった。そうせざるを得なかったわけですが、ここには危うさもあって、天皇は元首としての機能を果たすということだけだと、終身の公務員のような位置づけにもなりかねない。
それに反発して生まれたのが昭和維新の運動で、真の天皇主権の国家を目指すということになったわけですが、それは結局、軍部の発言力を高めるための口実にしかならなかったわけです。
天皇を西洋的な主権国家の枠組みにどう位置づけるかという試みはうまくいかなかったのですが、唯一、成功したといっていいのが、戦後に尾高朝雄が唱えた「ノモス主権説」ではないかと思います。天皇機関説でも天皇主権でもなく、「ノモス」という歴史的な規範に主権があると考える。ノモスという明文化できない「法」の中に、政治的な規範だけでなく文化的な規範も含まれていて、天皇も議会もそのノモスに従っているのだ、と。
藤井▼ノモス、つまり、法律や礼法、習慣や掟、そして伝統文化といった規範を指すギリシャ時代の概念ですね。だから当然宗教も含まれる。
柴山▼そうです。私はこれしか方法はないと思う。
現行憲法では天皇が祈るのは私的行為であり、これに対し税金を出さないことになっていますね。
浜崎▼実際、祭祀にかかる費用は、「内廷費」(天皇家の私費)から出ていますからね。
柴山▼天皇が国民のために祈る行為も、宗教行為であり私的行為である、ということになってしまった。しかし、天皇もノモスに従っているのだとすれば、これはおかしなことです。
祈る行為を天皇の公的な役割から外してしまうと、ますます終身公務員のような地位に近づいていく。他国を引き合いに出すことの失礼を承知の上でいえば、北欧やオランダの王はすでにそのような地位となっていますね。選挙で選ばれない儀礼的な大統領、といいますか。それが「世俗化」が進んだ先にある君主の姿なのかなと思いますね。
象徴ではなく「国体」
藤井▼強いていうと「象徴」というものが、日本のノモスの象徴であると憲法解釈することはできませんか? 象徴というのは国民全体を象徴するわけですから国民の中に祈りという気持ちというものも当然あって、それを象徴する鏡があって「知らす」というのと一緒ですけど、鏡としての象徴というものを重く見るという、これは西部邁の天皇論の中心に位置する概念ですけれども。
柴山▼そう思います。今の憲法解釈では天皇の国事行為の中に祈ることが含まれていないんだけど、それを含める必要があるのではないか、ということです。
藤井▼憲法解釈の改訂、ですね。
川端▼それはもちろん含めるべきで、やるべきだとは思うんですけど、僕は「象徴」という言葉自体に危険なものがあるかもしれないとも感じます。何かを「象徴する」ということが一つの役割になってしまって、要するに「機能」に過ぎないわけです。
皇室と国民の関係は、自然な秩序の感覚として歴史的に生み出されたものなので、わざわざそこに「象徴」という機能的な説明の言葉を与える必要はないと思う。
柴山▼尾高の指摘で面白いのは、西洋では国王の主権と国民主権が矛盾しないという点です。ローマ法の伝統では、初期に王を選挙で選んだ故事があるために、国王主権と人民主権が裏表の関係になっている、と。日本はそのような法的伝統を持たないため、天皇と国民の主権がバッティングしてしまう。
藤井▼ただ、日本では、国民も天皇も皆同じ一つの家族で、国民は天皇陛下の赤子であるから、天皇陛下は全国民のお父様だと自然に捉えているという伝統があり、それこそが、日本のノモスの根幹なわけですよね。
柴山▼歴史の積み重ねの中でノモスが形成されて、天皇不親政の下で武家政権が政治的実権を握ってきた。天皇が、征夷大将軍のような形で叙任するという形で、権威と権力の分立が続いてきた。それが国制であり国体である、ということ以外ないでしょうね。主権は誰にあるかということを明示するとおかしなことになる。そもそも主権という概念自体が、キリスト教史を背景に出てきた、極めて西欧文化的なものですから。
浜崎▼でも、だからこそ、象徴されるものと象徴するものという二元性を孕む「象徴」という言葉は適当じゃないんでしょう。やっぱり、「国体」と言った方がしっくりくる。
藤井▼国体、つまり、国家の人格が、我が国に一つある、というわけですね。
柴山▼天皇機関説を攻撃した人たちは国体と言った。それで国体という言葉が使いにくくなりましたね。
浜崎▼ただ、天皇機関説を攻撃した連中は、同時に天皇主権説の方に傾いていきますよね。でも、そうなると「しらす」とズレてくる。やはり、「しらす」の感覚というのは、天皇主権説でもなければ天皇機関説でもない、日本独特の秩序感覚です。
藤井▼ノモス主権論に近い。
浜崎▼まさにノモス主権論ですね。
川端▼象徴もそうですが「主権」という言葉も、我々が本当に考えるべきことを考えるのを阻んでいるんですよね。主権がどこにあるのかとわざわざ問うから、戦後は保守派でさえ、天皇主権論だと思われると差し障りがあるということで、戦前の「現人神」的な天皇のあり方を否定してみせるパフォーマンスをしなければならないところがある。
僕は天皇を神だとは思いませんが、しかし天皇を神として語って何が悪いのかという気持ちもある。福田恆存が言っていてなるほどなと思ったのですが、戦前ですら多くの人は天皇を「神」だとは思っていなくて、それはせいぜい「神の如きもの」であったと。と同時に福田は、日本人の民族的感覚は、俗なるものをわりと簡単に「神の如きもの」に祭り上げることができてしまうのだとも指摘している。
浜崎▼「野球の神様」とかね(笑)。
川端▼例えば悠仁様は普通の子供ではなく、神の如きものでしょう。一般の子供とはやはり別ですよ。そういう感覚を日本国民が持つのは実は難しくなく、みんな心のどこかでそれを共有できるんです。ただそれを言うことを、戦前への反省という強力な建前があるから、保守派でさえ躊躇してきた。
明治・大正・昭和前期的な、神聖にして犯すべからざる天皇の像は単純化が過ぎたにしても、「神の如きもの」は我々の生活空間や歴史空間にごく普通に存在してよいのだと考える必要が、現代でもあると思う。神聖なものは神聖なものとして認めた方がいいんです。そのためには、主権論というのは一旦無視した方が都合がいい。実際はそうもいかないんでしょうけど。
柴山▼形式上は国民主権ということでいいと思います。だけど実質は微妙に違う、というふうに説明していくべきなのでしょうね。
川端▼主権者たる国民の感情の中に、例えば「悠仁様はそりゃ神の子でしょ」と思う感情があるのだという理屈でつながるかもしれない。
柴山▼主権とは何か、という問題は西欧でも本当は自明ではない。今は全ての国が国民主権の原則を取っていますが、その内実はその国の歴史によって微妙な色合いの違いがある。だから日本は日本で、自国の歴史に基づいた考え方を取るべきですね。
浜崎▼実際、国民主権を謳っている日本国憲法自体が、大日本帝国憲法の「改正」によって成立したことになっていますが、だとすれば、その改正を「上諭」した天皇にこそ、その正統性の根拠があることになります。
つまり、「国民主権」の根拠そのものが、「天皇」の中にあるという解釈も可能になるわけで、そういうふうにして、改めて、国民主権と天皇との関係を整理し直す必要があるでしょうね。
川端▼普通に考えたら、戦後憲法も君主によって与えられた欽定憲法なんですよ、連続性からいえば。
浜崎▼そう、それこそ左翼の言う「憲法改正の限界説」ですよ。大日本帝国憲法の「改正」を裁可し、公布しているのが天皇である限り、天皇の存在は改正できない。
川端▼明治憲法の改正なわけですからね。そこで左翼は無理やり「八月革命説」を作り上げて、革命が起こったことにして明治憲法と切り離した。でもいい加減な理屈ですよ。
柴山▼その「八月革命説」に対抗したのが尾高の「ノモス主権論」で、国体は連続している、と解釈したわけです。
施▼和辻哲郎は国民の全体性を表しているのが皇室であると言っていますね。だから実質ノモス主権的なものというのは私は可能なのではないかと思うんですね。
本当はこういう議論を戦後はもっとやっておかなければいけなかった。戦前はそれなりにしてきたが、戦後やめてしまった。
それに、教育の場でほとんど皇室が教えられてないですよね。現在の学校では、天皇について、憲法の条文や、それに基づき国事行為をしている、といったことしか習わない。
この辺りもやはり『クライテリオン』のような雑誌が、伝統を様々に解釈し、教育の現場まで伝わるような知的な言葉を紡いでいかなければまずいだろうなと思う。皇室のような日本の伝統と、近代の制度をどのように両立していくか、常に試行錯誤していく必要がありますね。
天皇と軍隊
藤井▼小室さん問題を一番気にかけているのは実は男性というよりはむしろ、女性たちなんですよ。女性は「家」を実体として認識している。一方、男は「家長」であることを意識しなくなってきている。社会科学的にいうと家を意識している女性は「集団的」であり、男は「個人的」ということになる。
認識論的には、方法論的集団主義と方法論的個人主義がありますが、知識人の間に天皇論をしっかり広めていって、子供たちにも皇室を伝えるとなると、「家」という概念や日本の「国家全体」という概念が絶対必要です。これがなければ、皇室の大切さなんて実感として微塵も分からないでしょう。それこそ「ノモス」というのは方法論的集団主義ですが、集団主義的な感覚がないと皇室の話はできないし分からない。しかしこの感覚のない人がどんどん増えている。「家」ではなく「システム」しか分からない。それが日本の保守にマッチョな男系主義者たちが多い大きな原因になっているのだと思います。
方法論的個人主義というのは、近代の思想のコアに位置するものであり、この思想的な枠組みが皇室にとって巨大な毒矢になっている。したがって、方法論的集団主義や社会有機体説を肌感覚で常識として基礎教養として様々な形でしっかり教えていくというのが、間接的だが本質的に問題を改善する方法として重要だと私は思います。
施▼個人をどう乗り越えていくかという問題ですが、個人は分割できないインディビデュアルなものだという想定を疑うことが一番大切だと思います。
個人というのはそれ以上分割できないものでは全然なくて、個人をつくっているのは文化であり歴史であり伝統である。これはフィクションでもなんでもなくて、まさに現実そのものです。例えば、私の自我とか意識自体が日本の常識や文化にどっぷりつかっています。例えば、こうして自由自在にしゃべれるのも日本語だけです。
今回の結婚問題で「自由」とか「選択意志」といった言葉が飛び交ったのですが、自由とか選択をしている意識自体に、日本の文化や伝統が入ってきている。文化が主体のあり方を完全に規定するという文化決定論ではもちろんありません。しかし日本的なものが我々の自我自身に強い影響を及ぼしているのは否定できません。個人も社会や国家も、文化や伝統の産物です。我々は少なくとも部分的には文化や伝統によって生かされ、その恩恵を受けています。したがって、文化や伝統に対し、それを維持し、よりよき形で次世代に伝えていく責任や義務を負っています。我々はそういうことを、平易な言葉で子供たちに伝えていく必要があります。
柴山▼佐伯啓思先生が個人主義の問題を論じていて、「近代的な個人主義の最大のアポリア(難問)は戦争である」、と。個人的な自由、個人的な幸福を守るために、自由と幸福を犠牲にしなければならない局面がある。それが戦争だとすると、個人主義的価値観だけでは戦争は戦えません。これはどの国でも同じです。
我々が兵隊となって戦地に赴くということは、個人的な自由とか個人的な幸福に先だって「国家」というものが存在している、我々は「国家」を守るために戦うということになる。
では近代個人主義に論理的に先行する「国家」とは何であるのか。共和主義の国、例えばアメリカの場合は「建国の精神」や「民主主義」として物語化されるのでしょうが、日本は何なのか。そういう問題があるんです。
考えてみると、戦後憲法は、戦前の憲法から天皇と軍隊を切り離した。天皇は大元帥から象徴になり、日本に軍隊はいないことにされた。
戦前は、軍隊は天皇のために戦うとされていたわけです。日清、日露、もちろん大東亜戦争もそうですね。その場合の天皇は生身の天皇のことではなくて、国家を具体化しノモスを象徴し、日本の文化・伝統を体現する公的存在としての天皇です。戦後はそのつながりを断ち切ったわけです。
そうなると、日本人にとって「国家」は何であるのか、が改めて問われることになる。これから周辺諸国で戦争が起きる、日本が憲法を改正して自衛隊が国軍になるとなったときに、では国軍は何のために戦うのか。象徴天皇のためか。自由民主主義のためか。そういう問題を、もう一度考え直さなくてはならなくなるんです。
川端▼今の話に関連してぜひ言っておきたいのですが、論壇では天皇論や皇室論を考えるときに、戦争との関わりを避ける傾向がある。天皇は本来「文化的権威」であるということで。しかし古代以来、日本人はお祭りをしながら戦争を戦っているわけで、その両面に天皇はいる。神々に向かって祈ることと、地上で命を懸けて戦うことはセットになっているはずです。
日本人の戦争と宗教感覚の中心に天皇がいると考えるのは、誤謬でも禁忌でもない。そして、だからこそ、天皇陛下の靖国神社御親拝は重要なことで、これは多くの保守派が大事だと言っている以上に、思想的に重要なことだと僕は思っています。天皇が靖国神社で兵士の英霊を祀ることにより、戦争と宗教という極限的なものがつながって、国家として完成された形になる。
柴山▼天皇はとりわけ兵のために祈ってきたんですよね。
川端▼メディアで騒がれる首相の公式参拝はそれに比べればどっちでもよく、我々の「宗教感覚」を代表している天皇が、我々の究極の「身体感覚」を体現する兵士を祀れるようにしないと。
藤井▼本当にその通り、その点は今回の第二特集で取り上げる「『愛国』としての『反日』」のテーマそのものですよね。
柴山▼元陸上自衛官の小幡敏さんが言うように、「われら軍人は何のために命を賭けるのか」という問題が出てくる。
藤井▼今回の天皇の問題で改めて明らかになったのは、これまで言い尽くされたことですが、戦後GHQ主導で解体されたものはあまりに大きく、それによって皇室を支える我々のノモスも国体も激しく傷つき、品位も劣化し、衰退し続けており、その必然的な帰結として「小室さん問題」や皇位継承問題が起こっているということだと思います。ただし、そういう劣化は戦後においてのみ進行しているのではなく、はるかそれ以前から進行しているのだという認識も我々は持たねばならない。
いずれにせよ皇室を考えることは、我々日本全てを、その全ての歴史と共に考えることなわけで、通り一遍の議論で片が付くものでは到底ない、ということを本日改めて確認できたものと思います。だから我々は今日のような議論をさらに幅広く、そして、徹底的に重ねていくことが必要なわけです。これからもぜひ、この議論を国民的に拡げつつ日本が続く限りずっと続けてまいりましょう。
(『表現者クライテリオン』2022年3月号より)
他の連載などは『表現者クライテリオン』2022年3号にて
『表現者クライテリオン』2022年3月号 「皇室論 俗悪なるものへの最後の”反(アンチ)”」
https://the-criterion.jp/backnumber/100_202203/
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