先週、「西部邁自殺幇助」の容疑で二名の逮捕者が出ました。『表現者』の看板を掲げたメルマガとして、今回はこの事件に触れざるをえません。
とは言ったものの、幇助(として報じられているもの)の具体的な事実については何も知りません。それどころか今回の報に接するまで、私は西部先生が一人で決行されたのだと思い込んでいました。
以前から西部先生の「自死の思想」を繰り返し聞き、また読んできた者として、一月の逝去の報は(驚きがなかったと言えば嘘になりますが)意外ではありませんでした。しかし、その死に際して幇助者がいた、それも晩年の西部先生にとってごく身近な方だったという事実に、意外との印象を拭い去れずにいます。
もちろん、時間が経てばまた変わってくるのかもしれません。ただ今の時点では、ニュースに触れるまではそんなことを考えもしなかった。少なくとも私はそうでした。おそらく多くの読者・関係者にとっても同じだったことでしょう。まずはその率直な印象と、この数日で考えたことを記しておきたいのです。
いろいろな感想、論点があると思いますが、私なりに問題を整理します。
西部邁(歴史的固有名詞になりつつあることに鑑みて、以下敬称略)の「自死の思想」については、すでに方々で言及されているので、あらためて説明する必要はないでしょう。ただ一点、指摘するとすれば、西部邁の「自死の思想」は誰もがいつでも、好きなときに死を選べるという考え方ではないということです。
「誰でも好きなときに望むことができる」という考え方は、西部邁が追求した社会思想とはもっとも縁遠いものだったように思います。もちろん、自死についても同じです。
自らの使命や役割を果たしえなくなったとき、家族や周囲の人間関係から考えてそうするべきだと判断しうるとき、その人の人生の物語から見てそうすることがおおよそ納得できるような場合…など、いくつかの条件があって初めて成り立つ最終手段と位置づけられていた。そのように思います。
もちろん、その条件が具体的にどんなものかは状況による。すべては状況の具体相の中でしか判断できません。ある「正しい」と思える行いが、その状況を考慮した時に、本当に「正しい」のかどうかを吟味する。これは西部邁の道徳哲学の基本的な考え方でした。
問題は、その道徳判断が、国家の法律や、それを支える社会通念と相反する場合があるということです。例えば家族が飢えている最中に目の前のパンに手を伸ばしてしまった場合とか、正義がまったく満たされない社会での復讐劇とか、いくつもの場面が想定できます。もちろん、日常生活でそのような限界状況に直面することは多くはありません(また、多くあっては困ります)。
細かい議論を省いて言えば、自殺や自殺幇助もそうしたケースの一つと言えるでしょう。もちろん、自殺や自殺幇助をいつでも、どんな場合でも認める、などとすれば社会秩序が維持できません。だから警察や司法は、法律の遵守を求める。これは当然のことです。
法律の遵守を求める立場からすれば、法律とは独立した道徳判断があるなどという考え方は、「危険思想」以外の何物でもない、ということになります。そして世間一般で理解されている保守思想は、社会の法律を尊重する立場であるはずです。
しかし、西部邁の思想には、既存の法律に反したとしても道徳的に正当化できるなら(もちろんその正当化は論理的に厳密なものでなければならないのですが)それを容認するところがありました。その意味で、通常の保守思想をはみ出してしまう「危険思想」の要素が確かにあったのです。
西部邁はしばしば、アナーキズムへの共感を語っていました。アナーキズムは文字通りにとれば「無政府主義」ですが、ここで言われているのはもう少し踏み込んだ意味です。政府などなくても、家族や共同体がルールを、決めていくことができる。そのルールは、歴史や(深い意味での)常識を踏まえたものでなければならない。秩序は上から与えられるものではなく、下から自生的に作り出されるべきものだ。ごく単純化して言えば、そのような考え方でした。
もちろん理念と現実は違います。現実には国家がしかるべき手続きの下で定めた法律がなければならず、われわれはそれに従う他ない。だからアナーキズムは理念的なものでしかありないのですが、しかし西部邁の思想には、その理念を取り込んでいる部分が確実にありました。
これは、いわゆる教科書的な保守思想とはまったく相容れない部分です。しかし私は、その思想に、危うさの部分も含めて魅力を感じてきました。
法律上は「不法」でも、道徳的に正当化できる領域があることを認める。その上で、具体的な状況に照らして、その道徳判断が正当化できるかを吟味する。さて、そのような思考の道筋に従った場合、今回の事件はどのように理解されるべきなのでしょうか。
法律遵守の観点からすれば、自殺幇助は粛々と裁かれるべきだとなるでしょう。一方で、上記の考えが正しいとして、かつ当事者の道徳判断に分があるとするなら、法律を無視してはならないものの、その評価はもっと込み入ったものになります。どのように考えるのが正しいのか。それを判断するには今の時点では情報があまりに足りません。
どんな経緯で自殺幇助が行われたのか、そこに当事者のどんな判断があったのかが、まだ藪の中にあるからです。ただ、それでも、西部邁が人生の「最終手段」を取るに際して、関係者二人の手助けを求める必要が本当にあったのか、また、その後に起こるであろうことを十分に予期できていたのかについては、いま、多くの疑問が投げかけられています。
私もその疑問を共有せざるをえませんが、しかしそれは、あくまでも現時点での情報からくる感想に過ぎません。今後、情報が開示されていくにつれ、判断のあり方も変わってくるかもしれません。いまは事態の成り行きを見守るしかない。月並みな意見ですが、私には今はそのようにしか言えません。
今回のメルマガは、書くことにためらいがありました。事実の詳細が分かっていない段階で書いているということもありますが、率直に言って、この事件の関係者のさまざまな思いを想像するとどうにも気が塞いできて仕方ないのです。そこで、形式的な論理の力を借りて議論を整理しようとした。以上は、そのようなものとして、ご理解ください。
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