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『表現者クライテリオン2025年5月号 [特集]石破茂という恥辱ー日本的”小児病”の研究』から特集論考をお送りします。
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日本国総理大臣は我々の代表であるが、石破茂という男はこれに値するのか。
いったいなぜ、この国には優れた指導者が現れないのか。
問題はすべて、我々自身の内にある。自律的な意志を失った民族は必ず亡びる。
本年二月七日、トランプ合衆国大統領は石破茂首相との共同記者会見において「私が彼(石破首相)ほどハンサムならよかったが、そうではない」と冗談を飛ばしたが、私は笑えなかった。あの場面を眺める限り、西洋人にとっての日本人は相変わらず“リトルイエローモンキー”に過ぎなかったし、控え目にいってもこれは極東の田舎民族が受けた恥辱である。冗談を真に受けるわけではないが、自分が日本人であるからこそ、トランプの方がよほどハンサムであることはあらためてここに言明しておきたい。過ぎた冗談は時として礼を失する。
そんな冗談はさておき、日本の指導者の頼りなさ、ふがいなさは一体どうしたことだろうか。敬称は省くが、直近十名の総理大臣を挙げてみても、小泉純一郎、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、安倍晋三、菅義偉、岸田文雄、石破茂と、多少の良し悪しはあれ、これが大和の国一億二千万人から選ばれた最優秀のはずの指導者であるのかと情けなくなってくる。なぜこうまで優れたリーダーに恵まれないのか。これでは真の意味で国民を糾合することなど不可能事である。
この点、石破茂という人に関して特に思うところはない。彼については私が中学生の頃、キャンディーズが好きだと言っているのをテレビで見て、「このおっさんは夢の国を生きているんだな」と思ったくらいの印象しかない。ただ、自分が自衛官となった後は、装備と体制からしか軍事を語れない彼のような政治家が安全保障通として通ってしまう日本人の軍事音痴ぶりと、彼を愛国的保守政治家と認めて日本立て直しの期待をかけてしまうこの国の自称保守派に対して、若干の疲労とぬぐいようのない絶望を見ていただけである。
とはいえ、彼だけを責めるのも酷な話だ。過去十数年(半世紀以上?)の日本を見渡して、この国に優れた指導者は現れなかった。三島由紀夫が死んで日本は退屈になった、おれが死んだらもっと退屈になると言ったのは石原慎太郎だったか。たしかにこの国は、トランプによって混乱する米国さえ羨ましく思えるほどに退屈である。新学期、美人の担任がくればクラスは活気づくが、おたふくがきたらどうにも気合いが入らない。今と比べれば昔の政治家はまだ華があった。それは華というよりアクに近いものかもしれないが、それでも活力があった。右翼がテロの対象としてつけ狙うくらいの格は認めてよいだろう。それがいまや、陰気で具合でも悪そうな指導者ばかりで、命を張って成敗するだけの価値もなくなった(本当に健康状態が悪いのも居るから手に負えない)。たまに出てくる元気なやつは、最低限の教養すら備えないテレビタレント然とした阿呆である。これが米国相手に大立ち回りを演じた国のなれの果てかと哀しくなってくる。
では、指導者欠乏症は今に始まったことなのだろうか。『敗北を抱きしめて』で知られるジョン・W・ダワーは、経済的な繁栄を手にした八〇年代の日本に対して与えられたイメージを「強力だがクビのない姿をした国家」(『役に立った戦争』)と表現したが、彼は日本の資本主義を「『過当』競争を抑制し、国家主義的目標を増進しながら市場を維持している保守的な利害関係者たちがブローカーとして取り仕切る資本主義」とし、これはなにも戦後の焼け跡から生じた新生日本の専売特許ではなく、仕切り型資本主義として「両大戦にまたがる現象」であるとした。彼の眼には戦前と戦後の断絶というものはなく、このブローカーの主たる役者である官僚(軍官僚及び文民官僚)は、眼前の任務を「戦争」から「平和」へと変化させたに過ぎなかった。彼らの内には一貫して、「新しい世界秩序のなかで強い国を創造するためのトップダウン方式による長期計画への傾倒」が見られるという。付け加えるのであれば、GHQによる日本政府を通じた間接統治は、顔を持たぬ官僚たちの実力をさらに強力なものとしたと言えよう。当たり前のことであるが、実務機関としての官僚組織は明確な目標と有力な後ろ盾を得たとき、その能力を勇躍発揮する。戦後日本の発展は「経済参謀本部」の彼らを中心に果たされたといっても過言ではない。
しかるに、いずれにしてもそれは、上や外から与えられた秩序ないし改革方針に基づいた驚異的な努力により抜群の成績をあげたに過ぎない。与えたのは明治以来の元勲であったりGHQ、あるいは戦後日本が置かれた環境それ自体であったのかもしれないが、少なくとも国柄からしみ出した民族固有の生き方でもなければ、民主的に醸成されたものでもない。ただ目の前の任務に形式上のエリートが驀進していった結果であり、そこに民族の運命を背負った選良の姿は見えない。
さて、昔の政治家は華があったと言いはしたものの、それはあくまでも相対的な評価であり、日本という国家の“クビ”となって天下に号令し、国家国民の活路を示した指導者などおよそ皆無である。その証拠に、現在もなおこの国はサンフランシスコ体制が用意した「軍事・外交両面で二等国」(ダワー『吉田茂の史的評価』)という地位に対する徹底的な対決から逃げ続け、軍事的タダ乗りにより得た経済的繁栄に酔う内に「真の主権を完全に放棄するという高い心理的代償」の毒が廻り切ってしまった。その当然の帰結として、「太平洋の向こう側の偉大な白人国家の忠実な信奉者というはまり役」を与えられた日本は、人口減少と経済縮退の劈頭に立って、米国の「永遠の部下」としてその有能さ、言い換えれば利用価値を示し続けるプレッシャーにようやく自覚的になりつつあるが、アジア版NATOなどという身の丈に合わない思い付きをぶち上げたものの誰にも相手にされていない首相の下で路頭に迷っているというのが実際のところだろう。救国の英雄いまだ現れず、である。
このように考えてみれば、石破首相をはじめ日本の指導者がまるで意志らしい意志を示せず、それらしいことを言うだけのロボットに過ぎない醜態を曝していることは当然である。この原稿を書いている桃の節句の予算委員会において石破氏は、米国・ウクライナ両大統領の物別れを受け、「どっちの側に立つとか言うつもりは全くないが、とにかくG7が結束していくことが何より大事だ」と述べた。さもありなん、いくら衰えたとはいえ世界第四位の経済大国の長としてはいかにも迫力に欠ける。テレビのなんちゃってコメンテーターがその場しのぎでするようなコメントしか出来ないのである。こんな体たらくではアジア版NATOが聞いて呆れる。
とはいえ、問題は石破茂その人ではない。…続きは本誌にて…
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