令和7年、2025年もあと少しで終わる。日本も世界も忙しい一年だった。特に1月のトランプ政権発足は世界を激変させた。国内でも国政選挙や秋の自民党総裁選挙、高市内閣誕生と大きなニュースが続いた。円安、物価高、経済安全保障、中国の恫喝、消費税、年収の壁、エネルギー、AI、賃金、熊害獣害、自然災害や大規模火災、移民問題、医療制度と医療の崩壊、人口減少、全業界での人手不足、地方の過疎化、コメ騒動、老々介護、インフラの劣化、そして戦後80年関連行事や皇室問題、等々、数えきれないほどの「困った」話題が、政治・経済・外交から社会面までを埋め尽くして、報道関係者もさぞ忙しかったことだろう。毎日のニュースの中に見えて来たのは、戦後の多くの制度の限界と国民資質の低下である。若者の支持率が高い新政権は、若者の期待に応えてさまざまな壁を突き破ることができるだろうか。
生誕100年ということもあって、三島由紀夫関連の話題もあった。自決の3か月前に「サンケイ新聞」に載った有名な文章も繰り返し目にした。「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。」…その通りだった。「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに強くする。」…いまではもっと切実だ。「日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。」
昭和45年、1970年はまだ高度成長期で、「富裕な経済大国」を疑う者はいなかった。あれから半世紀経ったいまでは「抜け目のなさ」まで失っている。何をするにもその場しのぎで、きちんと仕事を仕上げることもできなくなって、以前なら考えられなかった職務上のミスや手違いも増えている。どう見ても日本人の質が落ちている。三島が嘆いた時代以上に未成熟で「からっぽな」日本にした元凶は、グローバリズムと失われた30年だったという気がする。
戦後80年ということで、戦災体験者のインタビューも多かった。戦争を知る世代ももう80歳をとっくに過ぎでいるわけで、当時の記憶は幼少期のものになっている。子供時代の悲惨な光景や身内を失った悲しみを訥々と話す老人たちの話は貴重で、つい聞き入ってしまうのだが、彼らが最後に言う言葉がみんな同じだった。「二度と戦争をしてはいけない」。
この判で押したようなフレーズを聞くと、それまでの話が急激に褪せていくのを感じる。この言葉には、いつも「主語」がない。「してはいけない」という禁止が、誰に向けたものなのかがわからない。「自戒」の意味ならわかる。しかし、彼らは「戦争の被害者」として語っている。戦争が、子供だった彼らの意思であるわけはない。だとしたら、他の誰かを非難しているように聞こえるのだ。戦争は「悪」だから「二度と」してはいけないという「正義」の主張のように聞こえるのだ。
これが「あんなに恐ろしいことは、もうたくさんだ」とか「二度とあんな思いはしたくない」「戦争は嫌だ!」というような、心の底からの叫びだったら、素直に受け止められる。しかし、「戦争をしてはいけない」では、戦った兵士たちを責めているようにも、国家を責めているようにも聞こえる。戦後の主流になっている平和を叫ぶ人たちに共通した匂いがするのである。おそらく証言者たちは、「戦争なんて嫌だ」という気持ちを伝える言葉として、よく耳にするこのフレーズを、深く気にも留めずに使うだけなのだろうとは察している。
私が気になるのは番組制作側である。全員がこの言葉を口にする不自然さや、この発言が取材中のどの段階で発せられたのかはわからないのに、必ずインタビューの締めくくりにもってきて番組を終わらせることに、メディアの姿勢が窺える。せっかくの貴重な証言を凡庸な「反戦もの」にしてしまう「お決まり」のパターンから未だに抜け出せないから、若者のオールドメディア離れが進むのではないか。
大昔の話であるが、私はカトリック系の女子校に通っていた。カトリックだからシスターが何人もいて、校長もシスターだった。その校長が、つぶやくように「日本は徴兵制を復活させないと駄目になると思うのよ」と言ったことを鮮烈に覚えている。普段、神様に祈っている敬虔な信者のシスターの口から「徴兵制」という言葉が飛び出した、その違和感に驚いたのである。
当時でも薄々わかったが、いまでは彼女の言いたかったことがよくわかる。当時の若者たちが、不真面目で、いい加減で、身勝手で、無作法で、幼稚で、「俗っぽい個性」を競い、ものを考えることをしなくなったのを憂えていただけでなく、社会がそれを容認する風潮、更には、彼らに迎合する大人たちを嘆いて、学校教育の無力さを痛感していたのではないだろうか。学校の限界を突破するには、「国家」に任せるしかないと思っていたのではないだろうか。彼女の言う「徴兵制」というのは、勿論、戦争の奨励ではない。若者を鍛える手段として兵役訓練を復活させるしかないということだったのだろう。戦争は、善とか悪とかいう抽象的なものではない。命がかかっている。人間は何に命を懸けるのかということを考えることなしに「悪いことだからしてはいけません」と教えることに疑問を感じて、兵役を体験して「命」について考えさせるという、彼女なりの熟考の結果であったのだと思う。
こんなことを思い出したのは、近年の世界情勢の悪化がある。今年になって多くの国が徴兵制を再検討し始めた。東アジアでも台湾や朝鮮半島の緊張感が高まり、以前よりも「戦争」が現実味を帯びて来て、日本でも長いことタブーだった軍事関連の話題が解禁されてきた。それでも、「国のために戦いますか」という問いに、YESと答えたのが世界最低の13%だったことを反映しているのか、国を守るのは「自分たちでない誰か」だと思っている。防衛費増額に賛成しても、誰が戦うのかは考えない。国は、税金を取り立てる巨悪であるか、福祉や社会保障を与えてくれるサービス機関だと思っている。これで何かあったら、日本人は戦えるのだろうか。
物価高で、目に見えて生活が劣化した1年だったが、貧すれば鈍するというのは本当だと思ったこともある。果樹園や畑から、収穫直前の果実や野菜をごっそり盗んでしまうという事件が何度もあった。被害額の問題ではなく、他人が一年間丹精込めて育てた、その成果をかっさらってしまう背徳性に唖然とする。犯罪に上等も下等もないというが、やはり下等である。被害に遭った農家だけの問題ではなく、農業そのものに対する犯罪である。これに限らず、日本人全般の幼児化や粗悪化が目につく年でもあった。金融機関の職員の使い込みや顧客への詐欺行為など、規律の乱れや職業倫理の喪失も多く耳にするようになった。
ネットいじめや不登校も相変わらずだし、「トクリュウ」犯罪に乗ってしまう若者たちも減らない。頻繁に掛かって来る詐欺電話の中には、高校生が事件を真似て自分たちで詐欺や強盗を企む例まである。ホストクラブの売掛金で借金を作って路上に立つ少女たちもいる。中年男からお金を巻き上げる「いただき女子」や、それにひっかかって借金までして自滅するいい年齢をしたおじさんたち。スカートの中や更衣室の盗撮や児童ポルノのコレクションの摘発のニュースでは、逮捕者のなかに多くの教諭たちがいた。12歳のタイ人少女が風俗店に売られた話は、まるで明治時代の貧農の娘の話のようだが、彼女を買う客がいるから「売られた」のである。どうも、これも珍しい話ではないらしく、大久保公園に立つ少女の中には小学生もいるのだという。介護施設での介護士による入居者への虐待もたびたびあった。良心の呵責とは無縁な大人たちが、弱者である子供を性の対象にしたり、動けない老人を虐待したりするような卑劣な犯罪が次々にニュースになった。
こういう事件がやりきれないのは、彼らが「普通の人」たちだからだ。普通の大人や普通の生徒たちが、加害者になり被害者になる。やくざの組織犯罪ではなくて、普通の誰かが大した罪悪感も持たずに犯罪的行為に踏み込んでしまうことだ。勿論、そこまで堕ちてしまう人間は一握りであって、日本人全員がそんなことをしているわけではない。それでも、良識ある大人になれなかった中高年と、罪の意識の薄い無思考の若年層がかなりの数になることは事実だ。みんな、不満や欲求や不機嫌をコントロールできなくなっている。パワハラやセクハラも自己コントロールができないせいで起こることが多い。
自然災害は毎年どこかで起きている。この国の宿命である。被災者が助け合い、ボランティアが駆けつける。心温まるエピソードが報道される。日本人だって、みんなが自分勝手なわけではなく、お金のことばかり考えるのでもなく、反社会的な者ばかりではない。彼らだって人間としての価値観を持っている「いい人たち」ではないか。だが、困っている人のために進んで手を差し伸べる人たちがちゃんといるのに、国のために戦おうという者が13%なのは何故だろう。
ボランティアには「死の覚悟」が要らない。それは、やさしさとか思いやりという「善意」であって、命を懸ける行為ではない。彼らは、戦争にボランティアで参加しようとするだろうか。災害と戦争は違う。戦争には、やさしさや思いやりという「善意」は通用しない。日本人には「善意」はあるが、「覚悟」がない。
日本の歴史での国難と言えば、たいてい自然災害だった。一人の生涯の間に、大地震や台風や洪水に何度も見舞われることだって珍しくない。そのたびに家族を失い、家や家財を失い、生存者は互いに助け合って乗り越えて来た。人間がどうあがいても容赦なく襲って来る自然の脅威は、死に対する無力感となる。日本人の死生観は自然災害と結びついている。
国家は自然現象ではない。人間が作るものだ。人間は弱い生き物で単独では生きられない。熊に遭遇したら食べられてしまうではないか。危険から身を守るために集団を作って協力して生き延びて来た。人が集まれば社会ができる。社会を運営するには規範が必要になる。社会が大きくなれば、規範も強まり自由度は減少する。国家は、個人に何某かの犠牲を要求するようになる。ときには国家は個人に「死」を要求する。そのためには、命を懸けるほどの価値観が必要になる。国家の中核には「倫理的価値観」がなければならない。職人が弟子に教えるのは技能だけではない。その誇りを「血肉」にしなければ、技は伝承されない。同じように、国の誇りを体得させるのが教育である。国家における死生観は能動的で、自然のなかでの無力感とは違う。
あれだけ激しい戦争をしたのに、戦争に負けて、国家の倫理や誇りが戦勝国の「正義」に粉砕されてしまった。「国民を騙した悪い国家」のことなど考えたくないという拒絶だったのだろうか。学校教育でも「国家」について教えなくなった。民主主義の素晴らしさは教わるが、日本という国家の「価値」について学ぶだろうか。敗戦によって国家という価値の対象を喪失した。戦後の「国家」には悪いイメージしかなかった。学校が国歌や「日の丸」を禁止した時代には「君が代」が「お相撲の歌」だと思っている子供たちもいた。少なくとも昭和の間は、「国家」とか「国益」などと口にできない雰囲気があった。子供たちは「国益」や「愛国心」は悪い言葉だと思っていた。インターナショナルは美しくて、国家は醜かった。
自衛隊もずっと「悪」の象徴だった。1971年に起きた航空自衛隊機と全日空機との雫石での空中衝突事故や、1988年に東京湾で起きた海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と民間遊漁船との衝突事故では、猛烈な自衛隊バッシングが起きた。いま、沖縄の一部で自衛隊差別があるというが、嘗ての本土でもあったことだ。自衛隊への国民の見方が変わったのは、東日本大震災での救助活動や捜索活動からである。国家意識の変化も、徐々にその兆しはあったが、潮目が変わったのは、尖閣諸島での「sengoku38」の動画の一件からではないだろうか。あのとき、日本の国家と政治家に「尊厳」や「威信」がまったくないことを、国民は知った。どちらも2010年ごろのことで、現在、「国家」「国益」「自衛隊」などの言葉を普通に使えることに、隔世の感がある。
国家の価値を失ったら、残るのは個人の欲望だけである。「人間の欲望は他者の欲望」だとラカンは言ったが、その通りで、生まれながらに「個性」など持っている者はなく、学ばないのに「実現する自己」などない。個性や自己が最初から備わっているかのような教育で、
衝動的な欲望だけになった個人は「幼児」のまま、食べさせてくれる親がいればひきこもり、それがいなければ性を売ったり強盗や詐欺を「してみた」りする。個人の欲望だけに従う人間は、対象が目の前に現れるとパブロフの犬のように条件反射で盗撮をしてしまう。
政治家が「国のために働く」と言うのは当たり前なのに、それが「働き方改革」に逆行すると文句をつけるようになる。労働の「質や意味」を問う話は出て来ない。労働時間だけが問題になる。政治家を選ぶのは、国のために「働いて」もらうためだ。健康には留意して頂きたいが、パーティーや宴会をする体力がある政治家なら、国のために働くという決意に文句をつけることはない。
希望がないわけではない。文句をつけているのは、戦後「個性」を重視し「平等」「自由」「民主主義」を教育された世代が多い。いまの働く若者の多くは真面目だ。いままで彼らが政治に関心を示さなかったのは、どうにもならないという閉塞感を感じていたかららしい。戦後政治の「救いようのなさ」を全身にまとっていた石破首相が選ばれるほど、日本は「堕ちた」。彼を選んだのは政治家仲間たちだ。若者は諦めていた。現状を突破してくれそうな元気なリーダーの出現で、俄然、若い世代が政治に参加し始めた。いままでみたいに責任回避ばかりしていた政治家とは違って「覚悟」がある、と彼らは感じている。責任をもつリーダーでなければ、人々はついていかない。国民の「明るさ」と「やる気」は「数字」以上のものを社会に与える。
来年は、厳しい年になるだろう。トランプ大統領と高市総理のウマが合っても、国家運営は別問題だ。いずれ、米中は日本を切り捨てる。(ほぼ「確実に」切り捨てるだろうと、個人的には思っている。)大国同士は戦わない。トランプと習近平、トランプとプーチンは、互いに敵意のないことを表明しあっている。トランプ個人の気まぐれや好みというだけではない。トランプ政権の若手閣僚たちの戦略でもあり、民主・共和を問わずアメリカの基本姿勢でもある。
日本は既にアメリカのバックパッシングの対象になっている。バックパッシングでは、ライバルの大国同士が仲良く振舞おうとするときが一番危ない。アメリカが中国に日本をいじめても構わないというサインを送ったのと同じことだと思ったほうがいい。日本が中国と戦ってくれれば、それがアメリカの利益になる。アメリカは(とくにトランプは)他国のことで自国のコストをかけたくない。むしろ、自国のために他国のコストを要求する。アメリカはとことん日本を利用するだろう。自立できず戦略もない国家は潰される。国民は、国家がなければ生きられない。来年は、若者たちに期待しよう……。
それでは、よいお年をお迎え下さい。
(バックパッシングbuck-passingについては、『日記53』を参照)
橋本由美
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