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【浜崎洋介よりお知らせ】—「危機の時代に小林秀雄を読む―日本近代150年目の批評」

浜崎洋介(文芸批評家)

みなさん、ご無沙汰しております。浜崎洋介です。

新刊出版イベント

 突然の告知で恐縮ですが、来る2022年1月8日(土曜日)、15:30~(開場15:00~)、

拙著『小林秀雄の「人生」論』(小林秀雄の「人生」論 (NHK出版新書 665) | 浜崎 洋介 |本 | 通販 | Amazon)の出版を記念して、

「危機の時代に小林秀雄を読む―日本近代150年目の批評」(※ライブ配信あり)というトークイベントを行います——詳しくは、イベント告知ページをご参照下さい——。

 ゲストに、文芸評論家の富岡幸一郎先生(関東学院大学教授)と、経済思想が専門で『表現者クライテリオン』の編集委員でもある柴山桂太さん(京都大学准教授)をお呼びして、「今、小林秀雄を読むことの意味」を議論したいと思っています。

小林が切り開いた「批評」というジャンル

 ただし、勘違いを誘うといけないので断っておくと、富岡先生と柴山さんをお呼びしたのは、お二人が『クライテリオン』に関係しているからというだけではありません。ほかならぬ「小林秀雄」という人間が、文学的「直観」と、社会科学的な「分析」を生きる=循環させることによって(解釈学的循環)、自ら「批評」というジャンルを立ち上げた文学者だったからです。詳しくは、会場でご説明しようと思っていますが、それによって小林は、近代日本の「危機」に身を横たえつつ、近代日本史上ほとんど初めて、単なる「啓蒙的指導理論」を超えて「文芸批評」という新しいジャンル——「文芸についての批評」であると同時に「文芸としての批評」——を切り開くことになったのでした。

 では、なぜ小林秀雄によって、「近代批評」の領域が切り開かれたのか。

 それは「批評」の英語訳=クリティーク(critique)の原義とも関わっています。つまり、「危機」(クライシス=crisis)の自覚において、はじめて「あれかこれか」を真剣に問う「批評」(クリティーク=critique)が立ち上がり、そのなかで「直観」への問い——すなわち「伝統」(クライテリオン=criterion)への問いが見出されてくることになるのです。その点、まさしく小林秀雄こそは、近代日本における〈危機—批評—伝統〉の運動を自覚的に生き抜いた最初の文学者だったと言っていいでしょう。

 そして、それが、近代黎明期の「明治」ではなく、むしろ、近代日本の混乱が極まってくる「昭和初年代」(昭和四年)に小林秀雄が登場してくることの意味でもありました。

 たとえば、初期の小林秀雄は、次のような「危機」的な言葉を書き記しています。

「何一つ定かなものはない。恐らく人類史上で新事実と云う言葉が最も重要性を帯びた今日、新事実を追う私たちの疲れた眼には、事物の色彩は重畳し、輪郭は交差し、何一つ定かなものはない。」(「現代文学の不安」昭和七年六月)

「自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いやそもそも故郷という意味がわからぬと深く感じたのだ。思い出のない処に故郷はない。〔中略〕振り返ってみると、私の心なぞは年少の頃から、物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確乎たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇がなかったと言える。思い出はあるが現実的な内容がない。殆ど架空の味いさえ感ずるのである。」(「故郷を失った文学」昭和八年五月)

 しかし、「故郷を失った文学」を発表した三年半後の昭和十一の十二月、「文学の伝統性と近代性」というエッセイを発表した小林秀雄は、そのなかで今度は、自らのクライテリオン——「伝統」への確信について語り始めることになります。引用してきましょう。

「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければ僕は生きていない筈だ。こんな簡単明瞭な事実はない。こんな単純な事実についていろいろな考え方があるわけはない。だから若し近代人たる僕が正直に自分を語ったら、伝統性と近代性との一致について何等かの表象を納得する筈だ。若し納得出来ないなら、それは正直さに就いて僕は何か欠けるところがあるからに過ぎぬ、という風に問題を簡単にしてみれば議論の余地は無い。

  議論の余地が無いというのは身も蓋も無いという意味ではない。これは原理だ。原理を摑まえて、そういってしまえば身も蓋も無いという顔をする饒舌家こそその問題を徒に厄介至極なものにしてしまっているのではあるまいか。」

では、なぜ「危機」は、明治·大正ではなく、昭和戦前期において現れていたのか。また、その昭和の「危機」に際して、どうして小林は「伝統」の原理を確信するに至ったのか。そして、その「伝統」を見出すまでの理路とは、「伝統」とはどのようなものなのか。

その「答え」については、当日、会場でお話しできればと思っていますが、しかし、明治の「文明開化」と、「大正デモクラシー」を経て、小林秀雄の直面していた問題が、「戦後民主主義」と「高度経済成長」を経て、平成·令和の私たちが、今、ふたたび直面している〈危機—自己喪失〉と無縁ではないことは朧気ながら想像できるかと思います。アメリカの掌で、飽きもせず「様々なる意匠」を語り続け、自らの「直観」を失い、「自信」を失ってしまった日本人は、それゆえに、これだけ疲弊した現実を前にしてもなお、「ネオリベラリズム(新自由主義)」などという周回遅れの理念を後生大事に手放さず、「グローバリズム」などという空想のなかで、愚かな自傷行為を繰り返し続けているのです。

トークイベント当日は、富岡幸一郎先生、柴山桂太さんと共に、文学と科学、直観と批評、戦前と戦後——つまり、「近代日本」の宿痾とも言うべき「自己喪失」の問題——などについてじっくりと腰を据えて議論できればと思っています。ここまで社会が「混乱」している今だからこそ、まずは「社会不安のなかに大胆に身を横たえた」(「『紋章』と『雨風強かるべし』とを読む」昭和九年一月)言葉が必要なのだと考えています。

新年早々恐縮ですが、1月8日、ご興味があれば、足を運んでいただければ幸いです。何卒、よろしくお願いいたします。

 

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