2022年2月16日に発売『表現者クライテリオン』最新(’22/3月)号
今回は最新号で掲載されている、第4回表現者賞受賞作となった岩尾俊兵先生の「文学的経営学序説」を前半後半の2回に分けて公開いたします。
なお、岩尾先生は22年度表現者塾の講師としても登壇予定です。
是非、ご一読ください!
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文学的経営学序説
文学と経営の対立の誤りを正す
慶應義塾大学専任講師 岩尾俊兵
いまから約半世紀前、文学に何ができるのか、あるいは文学は社会に対して何ができるか、と問われたとき、サルトルを囲んだ座談会参加者の返答は多分に悲観的なものだった(Beauvoir, S. de, Berger Y., Faye, J=P., Ricardou, J., Sartre, J=P., Semprun, J. Que peut la litterature? Union Generale d’editions, 1965. 平井啓之訳『文学は何ができるか』河出書房新社、一九六六年)。彼らは、文学には何もできない、文学はむしろ現実社会からの逃避としての意味を持つと言わんばかりだ。
だが、過去から現在まで文学に対して攻撃を仕掛けている「役に立つのか論」「儲かるのか論」≒経営学的文学不要論は、本当は、はじめから論理的破綻を内包していたのではないだろうか。
実は、経営学的文学不要論に内在する根本的な矛盾によって、むしろ経営学的論理を援用すればするほど、批判者の想定と反して、文学は社会発展に不可欠であるとの結論に至る。すなわち、文学に向けられるこうした刃は、むしろそのまま文学を守る盾ともなりうるのである。
もちろん、文学がそれ自体の価値を持つこと、社会の役に立つか論と文学とが無関係であるという文学側からの反論も正しく、それをここで否定するものではない。そうではなく、仮に世の中すべてを経営学的意思決定で判断するべきとする極端な論者を想定した場合でさえ、むしろ文学は積極的に社会に必要であると結論づけられるだろうというのである。それゆえに、本稿は、文学と経営の対立を乗り越えるための経営学的文学擁護論であるとともに、文学的な視点があってこそ経営学の限界が乗り越えられる可能性を考える「文学的経営学」の序論でもある。
それでは、もう一度サルトルの座談会に戻ることにしよう。
当時、ノーベル文学賞受賞拒否によって話題の人となったサルトルが「飢えて死ぬ子供を前にしては『嘔吐』は無力である」「作家たるものは、今日飢えている二十億人の人間の側に立たねばならず、そのためには、文学を一時放棄することも止むを得ない」と発言して波紋を呼んだ(『文学は何ができるか』一八五頁)。
こうしたサルトルの問題提起に呼応して、ホルヘ・センプルン、ジャン・リカルドゥ、ジャン=ピエール・ファイユ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、イヴ・ベルジェ、ジャン=ポール・サルトルの六人での座談会が実施された。
この座談会の緒言は次の通りである。
実際、機械化され、技術が幅をきかせ、非政治化されたものとして念入りに描き出されているこの一九六四年のフランスにおいて、書くという行為に、いかなる意味を付与すべきでしょうか。(『文学は何ができるか』一三頁)
すなわち、科学が高度に発展した現代へと向かう時代に、「書く」行為に意味が残っているか、科学技術に比して文学は社会発展のために何ができるのか、という問いである。
現代に至るまで同様の問いは繰り返し投げかけられてきた。そして、ときにそれは学問としての文学、ないし文学部の存在への疑問という形に姿を変える。たとえば、吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社、二〇一六年)は、文部科学省から国立大学長に宛てられた通知をきっかけにした「文系学部廃止」騒動を取り上げている。そこでは、メディアの過剰反応という側面と、その根本にある「儲かる(≒社会・経営の役に立つ)理系」「儲からない文系」という軸による社会認知・社会評価が語られる。
同じ文系であっても比較的「儲かる≒社会・経営の役に立つ」社会科学とされる経営学は議論の対象とならなかったことからも、役に立つ・儲かるという基準が大きな判断軸として社会の中に存在してきたことがわかる。
ここで、社会や経営の役に立つとされる「科学技術」との対比という観点からは、文学に評論(批評、文芸・社会評論)も含まれると考えてよいだろう。サルトルもまた、次にみるように、ここでいう文学には評論を含めている。
たとえば、評論もまた文学であり、それを文学から追放することはまことにむずかしいのです……。(『文学は何ができるか』一四五頁)
そこで本稿では、科学技術等の知識体系と対置して、文学を「現実との接点を持ちつつも完全なる事実でなくていい何かを物語ること」ができる文体芸術として広義に捉える。それにより、この文学の定義には、小説や評論に加え、映画、演劇、詩、個人の主観に基づいたエッセイなどの「物語性をもつ作品」のすべてが含まれることになる。
この定義により、事実と推論の集合である科学技術と文学とが明確に切り分けられるとともに、この「事実性と推論の確実性を必ずしも求められない」という文学の自由さが、作家の精神世界にとってだけでなく、この世界すなわち社会にとっても文学が不可欠であるという論理的帰結に、重要な役割を果たすことになる。
ふたたび『文学は何ができるか』に戻ろう。この座談会において、小説家であり批評家でもあるセンプルンは次のように切り出す。
問題が提出されるとただちに、さまざまな文学サークルの微温的な空気の中で、ひそひそとした、ざわめくような声の回答が聞こえてくるように思われます。それはまた、権威的で、また多くの場合、権威づけられた声でもあるのです。つまりそれは、価値があり、強力でゆたかな作品の名において語るのです。それはきわめて簡単であり、討論が開かれるや否や、直ちにそれに締めくくりをつけてしまうような、文学は何一つなし得ないという回答です。(『文学は何ができるか』三一頁)
座談会において、センプルンに近い立場をとる人物として、イヴ・ベルジェは、「文学は人を死なしめることもないが、それは少なくとも生きることの邪魔はしない(前掲書、一二七頁)」と述べ、文学は現実にかかわりを持たないとする。ベルジェは、むしろ、文学が現実にかかわりを持たないからこそ文学に価値があると考えているようだ。
文学とは、そのおかげで、子どもが飢えて死んで行くことを、また誰か他の人、ペギーだかクローデルだかが言ったように、世界苦がその全盛期にあることを、筆者が忘れるためのあの手段なのです。(前掲書、一三七頁)
こう告白した後に、ベルジェは、文学は「革命をも起こし得ず、不正をも防ぎ得ないものにすぎません」と断言する。ここでおこなわれているのは、現実社会と文体芸術との切り離しである。たしかに、文学を現実と切り離してしまえば、文学が現実の社会において何をなすのかという疑問はある意味では完全に切り捨てられる。文学は現実から逃避する先、最後の楽園だと主張すればよい。
この座談会において、ジャン・リカルドゥは、ベルジェ的な見方をさらに進めた立ち位置にいる。リカルドゥにおいては、現実こそ意味を持たないとまでいうのである。それなくして政治も生死もどんな重要性があるのか、と。人間に意味を与え、人間という存在を可能にするのは文学であって、文学なくして人間がないのだから、生死もまた問題はなくなるのだ、ということである。
人間が人間になるために、動物から人間になるために、文学という精神的活動、それによるコミュニケーション、すなわちリカルドゥの表現を借りれば、「読むことを可能にする(前掲書、七四頁)」行為が必要であるというのである。
だがサルトルは次のようにリカルドゥを突き放す。
「人間とは文学である」という言葉を耳にするとき、私はただちに、人間が文学へと疎外を生じたのだと了解します。なぜなら、人間の活動、ここでは文学活動であるわけですが、それを、リカルドゥがやったように、人間の本質に還元してしまうことは、私には全面的に不可能なのです。また、人間を文学的なものの本質とするのだ、と言ってみても、それは何の意味ももたぬでしょう。(前掲書、一四六頁)
このように、『文学は何ができるか』には、文学の存在意義に対してどこまでも悲観がついて回る。そして、文学不要論に対して、文学側から十分な論理的反論が出てきていないのは、現代の日本でも同じ状況だ。
しかし、一見すると逆説的だが、文学に牙をむく「社会の役に立つか論」それ自体、またはその論証道具としての経営学、より具体的には経営学の一分野である意思決定理論を正しく援用すれば、こうした悲観は一掃できる。
議論の出発点になるのは、近代経営学の祖でもありノーベル経済学賞受賞者でもあるハーバート・サイモンによる『経営行動:経営組織における意思決定過程の研究』(ダイヤモンド社、二〇〇九年。原書は一九四六年)、『意思決定の科学』(産業能率大学出版部、一九七九年。原書は一九七七年)、『意思決定と合理性』(筑摩書房、二〇一六年。元となった講演は一九八二年)の三冊である。これらの著書の中で、サイモンは、人間は日々大小様々な意思決定をおこない、それを実行しながら生きていると指摘する。ただし、こうした意思決定には合理的な過程が存在しているという。
いま我々が森の中でキャンプをしていて、テーブルが必要になったと考えよう。テーブルを得るという問題を我々はどのように解決するのであろうか。我々は、この問題を次のように言い表わす。我々は平らで水平な木の板を必要としている。我々は周りにいろいろな種類の木と若干の道具をもっている。我々はつぎのように質問をする。我々の必要としているものと我々が手元にもっているものとの間にどのような差異があるのか、と。(『意思決定の科学』九五頁)
これは一般に目的─手段関係と呼ばれる。人間は、ある一定の目的や目標を与えられると、それを実現する様々な手段を思いつく。そして、その手段と現状との差分を把握し、手段を改良していく。ただし、このとき、目標はどのように与えられるのか、という問いは残されたままだ。
これに関して『経営行動』では、目標は組織から与えられるのだという投げやりな解決が示される。組織における活動においては、目標は与えられるものなのだから考察の範囲外、ということだ。だが、ハーバート・サイモンは、問題を残したままにはしなかった。個人の普段の行動、普段の意思決定についても、続く『意思決定と合理性』において考察しているのである。
そこでは、目標が「注目」によって与えられるとされ、さらに、注目は外部環境や内部環境によってどこに振り分けられるかが決まってくるとされる。ここでいう注目の効果は、次のように考えるとわかりやすい。たとえば、自分の身体という内部環境において、胃に一定期間栄養物が届けられず、一方でエネルギー消費は増加していったとする。すると、胃液は濃くなり、血中の糖は減少し、これらの作用が脳に対して不快感という信号を送ることになるだろう。
もし彼が原稿を書いていたならば、やがてキーボードを打つ手は止まり、頭の中では、目の前の原稿が思うように進まない悩みから、食物を探すことへと注意が振り替えられる。単なる空腹をむずかしく表現しただけだが、ここには人間の意思決定の本質的な側面が表れている。
つまり、人間はその時々で好き勝手なことをおこなうが、同時に環境が変化することによって、何に注目を向けるか、が変化する。人間は一度に注目できる対象はごく少数であるから、何かに注目するということは、他の目標を締め出すことになる。こうして、どれだけ優柔不断な人間であっても、食事をするか原稿を書くか迷っているうちに餓死してしまうなどということは起こらない。すなわち、注目という行為は、必然的に集中をもたらし、集中によって行動がもたらされ、行動によって最終的に環境は変化させられるのである。
このとき、この「注目」には何らかの形状がある。たとえば普段の生活の中では、自分の生死に直接的に関係するものを中心に、徐々に自分との利害が薄い事柄へと裾野が広がるような、正規分布的な形状で選択確率が変化すると考えるのが自然であろう。
そうだとすれば、人間の普段の意思決定は、自分の生活に密着したものから順になされる可能性が高く、自分の目の前の生活とのかかわりが薄いものは確率的に無視されがちとなる。だからこそ、自分の生活に関係がなさそうな社会的矛盾を人は容易に見過ごす。
それは、たとえその個人が通常の同情心を持った優しい人物であっても、である。そして、社会の矛盾への無視は、悪人によってではなく、意思決定理論的には、平凡な善人によってなされる。このときサイモンは『意思決定と合理性』において、こうした不条理の解決に文学が果たす役割を部分的に考察し、そこに希望を見出してもいる。
。。。(続く)
(『表現者クライテリオン』2022年3月号より)
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