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【仁平千香子】「悲しみ」を知らない現代日本人は、戦争の何を理解しているのか(後編)

仁平千香子

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表現者クライテリオン最新号 6月16日発売!
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「悲しみ」を知らない現代日本人は、戦争の何を理解しているのか(後編)

仁平千香子

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 何が悲しいのか。殺された人数や流れた血の量や傷の痛みが悲しみの尺を決めるのではありません。大義名分もない(それは兵士たちが一番よく知っていました)戦争に大切な青年時代を奪われ、自分の命を守ること、そしてその精神が患わないことに意識を集中し続ける人生の虚しさ、さらに彼らの苦悩と悲しみは本土の同胞人たちには決して理解されないこと、それが悲しいのです。

彼らは肉に触れる銃口を想像した。簡単なことだ。引き金を引いて、足の指を吹き飛ばせばいいのだ。彼らは素早く訪れる甘美な苦痛を想像した。日本への移送、入院。温かいベッドとキュートなゲイシャ看護婦。

 兵士たちは命に支障のない程度の負傷を負い、戦線から退避する仲間たちを羨ましく眺めます。そこには平和への願いもアメリカの正義もありません。ひたすらに自分という荷物を正気を保ちながら運び続けることを目的に生きています。

 仲間の兵士が死んだ翌日、中尉は愛するマーサからの手紙を焼きます。手紙には戦争に言及した言葉はひとつもありません。同じアメリカ人でも、本土にいる彼女にとって戦争は自分には関係のない遠い国の出来事なのです。中尉は心に決めます。これからは兵の規律を厳しくし、嫌われることも辞さないと。「俺の任務はみんなに愛されることではなく、みんなを指揮することにあるのだ。俺は愛なんてものを抜きにしてやっていこう。それは今のところ無用のものなのだ」。人間の「ズドン·ばたっ、もう死んでいる」が日常の中尉にとって、愛する女性からの手紙はもうお守りとしての効用を失っていました。中尉は狂気から自分を遠ざけるため、愛自体を手放すことを決めるのです。戦場に愛は不都合な感情のようです。仲間が死ぬたびに悲しみに耽っていては、生き延びることはできないからです。

 広島サミットではゼレンスキー大統領をゲストとして迎え、「ウクライナに対して外交、財政、人道、軍事支援を必要な限り提供するという揺るぎないコミットメントを着実に実施していくことで一致」(外務省HP)したそうです。G7のゼレンスキー大統領に対する愛が滲み出ています。しかし「必要な限り供給」された軍事支援を使うよう命令される戦場の兵士たちは、感情そのものを放棄することで狂気という一線を越えないよう注意深く日々を過ごしているのかもしれません。

 進行中の戦争とベトナム戦争を重ねるつもりはありません。またオブライエンの作品のみで戦争というものの全体を理解できると主張する意図もありません。しかし、これほどメディアが戦争のニュースを毎日報道し続けるなか、オブライエンが描いた戦場の悲しみに何か近いものでも知ることができる報道がどれほどあるでしょうか。戦争で悲しみを経験するのは兵士だけではありません。兵士の帰りを待ち侘びる家族や恋人、また戦争によって家や財産を失った市民も数多くいるでしょう。「加害国」出身だからといって、戦闘に関わりのない人々が他国で差別を受けるということもあるでしょう。戦争が作り出す悲しみは、水の波紋のように無限に広がります。波紋の行き先を全て理解することはできません。しかし歴史を通して描かれ続けた文学作品には、戦争をあらゆる角度から眺めた無数の「虫の目」が紹介されています。それらを通して進行形の戦争の本当の悲惨さを理解しようとする努力は十分可能です。

 村上春樹は人為的に必要性を作る消費主義社会を揶揄して、次のように言いました。

誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスです。(『ダンスダンスダンス』)

欲しい(そしてそれが得られたときの嬉しい)という感情が人為的に作られるのであれば、悲しみもまた人為的に作られてはいないでしょうか。これが悲しいニュースですよ、こういう人たちがかわいそうな人たちですよ、と。


ダンス・ダンス・ダンス 村上春樹

 与えられる「かわいそう」に麻痺している私たちは、本当に悲しいものとは何かについて自ら考える機会に恵まれていないのかもしれません。悲しみは教えられるものでも、情報として頭で処理するものでもありません。心で感じ、痛みを伴うものです。悲しみを悲しみと感じる経験に乏しい人間は、どんどん乾いていきます。

 歴史が受験対策のクイズ扱いになってしまった現在、歴史は数字と記号の集積でしかなくなりました。数字と記号に愛着など持てません。そこにたくさんの温かな血が流されたことも、涙にくれる無数の人たちがいたことも、そのどん底の悲しみをバネに未来の子孫のために身を削って尽力した人たちがいたことも、知る由もなく、興味も湧きません。求められるのは情報処理能力であり、感受性ではないからです。人工知能と人間が知性を競う時代に、感受性などという非合理的なものなど、何の価値もないのでしょう。「かなしい」ことです。

 戦争が強者の正義で正当化される現在、強国の作為に気づくためにも、日本のリーダーの真の愚かさを理解するためにも、「かなしみがわかる」教育という岡氏が残してくれた戦後の課題に、今一度向き合うときではないでしょうか。

(了)


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