「人手不足」に苦しむ日本企業
現在、少子高齢化が進み、労働力人口が減少する日本において多くの企業が「人手不足」に悩まされています。
2023年4月28日には、政府による新型コロナウイルスの水際対策が終了し、5月8日には感染症法上の分類が5類に移行されました。行動制限の緩和に伴い人流が戻ってきたことで消費マインドが改善し、「アフターコロナ」に向けて国内景気が回復傾向にある一方で、コロナ禍で一時的に悪化していた需要が急激に回復したために多方面で供給が追い付かない状況が続いています。帝国データバンクの「人手不足に対する企業の動向調査(2023年4月)」によると、とりわけ、行楽シーズンを迎えて観光業や飲食業などの業種で「人手不足」が顕著となっており、正社員の人手不足企業の割合は4月としては過去最高の51.4%となっており、業種別では「旅館・ホテル」が75.5%で最も高く、「情報サービス」で74.2%、「メンテナンス・警備・検査」の67.6%と続いています。非正社員でも4年ぶりに3割を超える30.7%が人手不足となっており、業種別では「飲食店」が85.2%でトップとなり、「旅館・ホテル」が78.0%で続き、小売業やサービス業など個人向け業種が上位を占めるという結果が得られています(注1)。
「スキマワーカー」という働き方
先般、NHKの『あさイチ』(2023年8月3日放送)で、「深刻化している人手不足を解決する方策」の1つとして「スキマワーカー」という「働き方」が取り上げられていました。
私は寡聞にして知らなかったのですが、「スキマワーカー」とは「すきま時間を利用して働きたい時に数時間だけ働く人」のことであり、番組では「どのように仕事を見つけるのか」「安全性はどうなのか」などについて解説し、「飲食店のランチタイムにご飯を盛り付けるスキマバイトをしたことがある女性」や「子育ても落ち着き、普段は会社員として働きながらも、休日にスキマワーカーとして多種多様なスキマバイトをこなして数十万円の貯金をした女性」の事例などが紹介されていました。
短時間の仕事専門の求人アプリには、飲食店やスーパー・農園・遊園地・旅館・動物園・コンビニ・生花店・洋服店・物流倉庫・保育園・介護施設・美容院・結婚式場…など、とにかく多様な場所でのスキマワークの募集を掲載されています。
スキマワークの特徴は「面接がない」「給料が即日払い」ということであり、アプリで求人に応募して採用が決まるまでの時間が数時間程度と非常に短く、当然のこととして事前の面接などはありません。また、給料は仕事をした当日の数時間以内、または遅くても翌日には入金されることになっているということです。
スキマワーカーとして働く際に、特に気をつけなければならないことは「安全な職場であるか」「労災(注2)はあるのか」ということであり、求人アプリでは有害な求人が掲載されないように独自の基準で審査を行い、ユーザーからの通報があれば、危険で有害な仕事は削除対応も行っているとされています。契約が「雇用契約」の場合は労災が適用されますが、「業務委託契約」の場合は基本的に労災が適用されることはありません(注3)。
NHKの番組では、スキマワーカーについて「トラブルが発生する可能性」などの問題点も指摘し、「スキマワークの仕事を提供しているアプリには、その仕事のレビューが設けられているものもあり、そのレビューには良いところだけではなく、悪い点やマイナスの情報も掲載されているので、応募するときにはレビューを見て参考にするようにしましょう」と注意喚起をしつつ―あくまでも利用する個人の「自己責任」であることを強調した上で―新しい形の「働き方」として、全体的にはスキマワーカーについて肯定的な評価をして伝えているように感じられました。
日本経済の「強さ」とは何かー知的熟練論
「失われた30年」と言われるほどの現在の日本経済の凋落ぶりから、いまの若い世代の人達にとっては想像すらできないことなのかもしれませんが、戦後日本は他のアジア諸国に先駆けて高度経済成長を実現し、約40年間もの長きにわたって「世界第2位の経済大国」と言われるほどの経済発展を成し遂げてきました。
現在の「日本経済論」においては、「何故、日本が衰退したのか」「失われた30年の要因とは何か」といったことを主たるテーマとして掲げているものが多数を占めているものと思われますが、バブル崩壊以前の「日本経済論」では、エズラ・ヴォ―ゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(注4)のように「戦後日本経済の高度経済成長の要因」や「日本的経営の強さ」などについて論じているものが多かったと記憶しております。
日本経済の「強さ」について、その源泉を「冷戦」など当時の国際情勢をはじめとする日本を取り巻く「外部要因」に求める議論や「国民の勤勉さ」「国民の平均的な教育レベルの高さ」「貯蓄性向の高さ」「生産性の高さ」など「日本人の国民性」と結びつけて考察する議論などさまざまな言説がありましたが、当然のこととして、その要因を1つに絞ることなどできるはずがありません。当時の日本経済の「強さ」は、複数の要因が相互に作用した結果として捉えるべきものであり、その中で、小池和男は「日本の製造業における労働生産性の高さ」に着目し、『仕事の経済学 第3版』(注5)に代表される一連の研究で展開した「知的熟練論」において「生産労働者の技能形成のあり方こそが日本企業の国際競争力の源泉(の1つ)である」ことを提示しました。
小池らが提示した「知的熟練」とは、「問題への対応」と「変化への対応」という「ふだんと違った作業」をこなす力量のことです。ここで「問題」とは品質の不具合及び設備の不具合を指し、「変化」とは生産方法・製品構成・人員構成の変化を指します。この「問題」と「変化」に対して、製造ライン内において生産労働者がどのように、そして、どれくらいの高い技能(「経験の深さ」)を用いて対応しているかということが生産性を大きく左右することになります。また、工場内の職務をどれだけ経験したかということが、その労働者自身の「経験の幅」となり、職場を構成する労働者の技能の「深さ」と「幅」のあり様が生産の効率性を考える上で、決定的に重要な要素であることを明らかにしています(注6)。
「知的熟練論」は、工場など製造業の現場での事例研究に基づいて構築された理論であり、サービス業やIT産業など様々な産業分野の分析に応用するためには多くの修正ないし補足が必要になることは想像に難くありません。しかしながら、製造業分野のみならず、あらゆる産業分野において、その業務に携わる労働者の「知的熟練」の高さが生産性に大きく影響すること、そして、労働者が「知的熟練」を高めるためには、実際にその業務を経験することを通して自らの技能の「深さ」を掘り下げて「幅」を拡げていくしか方法がないことは明らかです。
我が国の多くの現場―製造業の工場に限らず、実際に労働者が働いている場―において、労働者の各々が自らに課せられた業務に携わることを通して「知的熟練」を高めていったこと、そして、諸外国と比べて「知的熟練」が高い労働者が多く存在していたということが、かつての日本経済の「強さ」を支えた重要な要素の1つであったことは紛れもない事実なのだと思われます。
「暗黙知」としての「知的熟練」
労働者が身につける「知的熟練」には、言語化して作業の手順書や機械の取扱説明書などといったマニュアルに記述することができる、説明可能な「形式知(誰もが認識することが可能で、客観的に捉えることができる知識)」と、言語化することができずに、実際の作業を通して体得することでしか身につけることができない―いわゆる「暗黙知」に相当する―「技能」が含まれているものと考えられます。
「暗黙知 tacit knowledge」とは、ハンガリーの哲学者であるマイケル・ポランニー(経済人類学者カール・ポランニーの実弟)が『個人的知識-脱批判哲学をめざして―』や『暗黙知の次元』などの著作において提唱した概念であり、言語化することができて説明可能な「形式知」に対して「経験的に使っている知識だが、主観的で言語化することができない、あるいはたとえ言語化しても肝要なことを伝えようがない知識」のことです。
個人がもつ知識には、言葉で表現できる「形式知」と、言葉で表現できない「暗黙知」とがあり、前者よりも後者のほうが多くを占めています。ポランニーは、端的に「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」(注7)と述べて、「暗黙知」について「人の顔を識別すること」や「自転車の乗り方」といった事例を用いて解説しています。
ある人の顔を知っているとき、私たちはその顔を千人、いや百万人の中からでも見分けることができる。しかし、通常、私たちは、どのようにして自分が知っている顔を見分けるのかわからない。だからこうした認知の多くは言葉に置き換えられないのだ(注8)。
私たちは、自転車を乗りこなすことはできるけれど、その乗り方について、どのように操作するのかについて、明示的に言葉で語ることはできません。ポランニーによると自転車に乗る「技能」は「暗黙知」と言えるものであり、「自転車に乗る人がバランスを保つ原理は一般に知られていない」(注9)のです。
我々は自転車に乗ることができるが、誰もが最初は自転車には乗れない。しかしいったん自転車乗りに習熟すると、その動作を行なうのを休んだ期間がたとえ十年でも二十年であっても問題なく自転車を操縦することができる。ちょっと考えてみれば判るように、自転車に乗ることはかなり複雑で微妙な身体の運動とバランスを要する。坂道の勾配、自分の体重、ペダルの重さ、自転車自体の傾斜、スピード等をもしも数量化して見せたとしたら、なぜ我々自身がそのような微妙な判断を瞬時に行なえるのか、そしてそれをいったん習熟すれば半永久的に忘れないのかがあたかも奇蹟的なことに思われる。けれども、我々は実際、難なくその動作を行なうのだ(注10)。
名も知れない多くの労働者が、それぞれの仕事の現場において―時間をかけて―与えられた職務に真摯に対峙し、「問題」と「変化」に対応する「知的熟練」を高めていった―自らの「暗黙知」を発揮してきた―ことの積み重ねが、日本経済の「強さ」の源泉であったと言うことができるのではないでしょうか。
「スキマワーク」では得られない「知的熟練」
恐らく、多くのスキマワークの現場では、その業務を全く経験したことがない人が即戦力として対応することができるように、そして、スキマワーカー同士が協力して業務に従事することができるように、業務の細分化とモジュール化が行われ、不測の事態が起こった場合の対処策も含めた膨大なマニュアルが作成されているのであろうと思われます。
労働者が「知的熟練」を身につけるためには、ある程度の時間を継続して同じ業務、もしくは少なくとも相互に関連する業務に従事することが必要とされると考えられます。また、不測の事態―「問題」と「変化」―が生じた場合に、与えられたマニュアルに即して機械的に対応するのではなく、「どのように対処するのが最適であるのか」を自ら考えて行動することが求められるに違いありません。
スキマワーカーという働き方について、私が否定的に捉えてしまっているだけのことなのかもしれず、実際は、私が考えているような状況にはないのかもしれませんが、スキマワークの現場において、「その日限り」「その場限り」で集まるスキマワーカー達が、その場の状況に応じて臨機応変に自ら考えて行動することよりも、何も考えずに雇い主側が準備したマニュアルに―あたかもロボットであるかのごとく―機械的に従うことが求められているのではないか、もしそうでなければ、雇い主側がスキマワーカーを管理しづらい―マニュアルに則って管理することができない―と考えてしまうのではないだろうかと想像してしまいます。
現在の日本企業が、厳しい「人手不足」に対処するためにスキマワーカーといった働き方を取り入れることを完全に否定するものではありません。しかしながら、スキマワーカーという働き方が拡がり続け、あらゆる産業分野に浸透し、そして、多くの労働者がスキマワーカーという働き方に順応する―順応せざるを得なくなる―ことによって「知的熟練」や「暗黙知」を身につける機会や意欲を失ってしまうのではないかと考えてしまうのは悲観的に過ぎるでしょうか。
振り返れば、「失われた30年」に突入した初期の頃には「プー太郎」や「フリーター」といった言葉が流行し、社会現象となりました。その後、小泉改革が始まって「労働の流動化」をポジティブに捉える言説が広まり、実際に「非正規雇用」の割合が高まることとなりました。この「スキマワーク」という現象は「仕事の断片化」と「労働の流動化」の行き着いた姿の様に見えます。
これ以上の日本経済の衰退を食い止めるために、あらゆる手立てを講じなければならないことは当然のことです。そのためには、現在の日本企業が直面している「労働力不足」という喫緊の課題に対して「外国人材の活用」といった耳触りの良い言葉で化粧をした「外国人単純労働者の受け入れの大幅拡大」といった安直な手法によって、我が国の「国柄」を破壊することに繋がりかねない「移民国家化」を進めるのではなく―具体的な方法を提示することができなくて申し訳ないのですが―長い時間を要することだとは思いますが、労働者が「知的熟練」や「暗黙知」を身につけることができる場を再構築していくことこそが求められているのではないでしょうか。
かつての日本経済の「強さ」を取り戻すためには、この30年間進んできた道を改めて問い直し、大きく舵を切る必要があるように思えてなりません。
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(注1)人手不足に対する企業の動向調査(2023年4月)| 株式会社 帝国データバンク[TDB]
(注2)労災補償 |厚生労働省 (mhlw.go.jp) 労災保険制度は、労働者の業務上の事由または通勤による労働者の傷病等に対して必要な保険給付を行い、あわせて被災労働者の社会復帰の促進等の事業を行う制度です。その費用は、原則として事業主の負担する保険料によってまかなわれています。
労災保険は、原則として 一人でも労働者を使用する事業は、業種の規模の如何を問わず、すべてに適用されます。なお、労災保険における労働者とは、「職業の種類を問わず、事業に使用される者で、賃金を支払われる者」をいい、 労働者であればアルバイトやパートタイマー等の雇用形態は関係ありません。
労災年金給付等の算定の基礎となる給付基礎日額については、労災保険法第8条の3等の規定に基づき、毎月勤労統計の平均給与額の変動等に応じて、毎年自動的に変更されています。
(注3)さまざまな雇用形態|厚生労働省 (mhlw.go.jp)及び雇用契約と業務委託契約の違いは?混同しがちな請負契約や委任契約についても解説 – バックオフィスクラウドのジンジャー(jinjer) (hcm-jinjer.com)、業務委託とは?雇用契約との違いや契約時の注意点について簡単に解説 (miidas.jp) などを参照。
(注4)エズラ・ヴォ―ゲル『ジャパン アズ ナンバーワン ―アメリカへの教訓―』
(注5)小池和男『仕事の経済学 第3版』
(注6)平尾智隆「スキル研究としての知的熟練論」
(注7)マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』
(注8)マイケル・ポランニー、同上書
(注9)マイケル・ポラニー『個人的知識―脱批判哲学をめざして―』
(注10)栗本慎一郎『意味と生命 暗黙知理論から生命の量子論へ』
参考文献
・エズラ・ヴォ―ゲル『ジャパン アズ ナンバーワン ―アメリカへの教訓―』TBSブリタニカ、1979年(『ジャパン アズ ナンバーワン 新版』阪急コミュニケーションズ、2004年)
・小池和男『仕事の経済学 第3版』東洋経済新報社、2005年
・平尾智隆「スキル研究としての知的熟練論」『日本労部労務学会誌』VOL.23 No.1、2022年
・マイケル・ポラニー『個人的知識―脱批判哲学をめざして―』ハーベスト社、1985年
・マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、2003年
・栗本慎一郎『意味と生命 暗黙知理論から生命の量子論へ』青土社、1988年
(藤原昌樹)
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