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【柴山桂太】債務国家とインフレの政治学

柴山桂太

柴山桂太 (京都大学大学院准教授)

-デフレよりもインフレの方が望ましいとケインズは言った。
しかし、現代国家でインフレは必ずしも歓迎されない。
それはなぜか。

 

嫌われるインフレ

 世界各地で急激な物価変動が起きている。二〇二〇年に コロナ禍が始まった時、懸念されたのは景気の落ち込みによるデフレの進行だった。それから何年も経たないうちに、今度はインフレの脅威が語られている。

 このような急激な物価変動は、経済の自然な循環で起きるものではない。コロナ禍やウクライナ戦争など、経済の外側で起きるショックと、ショックへの政策的反応によっ て引き起こされていると考えるべきだろう。二〇二〇年のデフレ危機は、パンデミックによる経済活動の縮小と、都市封鎖など人為的な政策の産物だった。一方、この二年ほど進行するインフレは、パンデミックによる物流の混乱や労働市場の逼迫に加えて、ウクライナ戦争による原料価格の高騰によるところが大きい。ことアメリカに関して言えば、コロナ禍への政策的対応として実施された拡張的な経済政策が、運悪くその後のインフレを後押ししてしまった感も否めない。

 そのアメリカでは、インフレ抑制を目的とした政策金利の引き上げが続いている。その効果もあってか、物価上昇率は一時の八%台から三%台へと落ち着きつつあるが、懸念されるのは次の景気後退である。一九九〇年代末のITバブルの崩壊も、二〇〇〇年代末のリーマンショックも、いずれもその前に政策金利の引き上げがあった。過去のパターンを踏襲するなら、近く大きな景気後退に見舞われておかしくない。

 ユーロ圏諸国の状況はより深刻である。天然ガス輸入などでロシアとの結びつきが深かった欧州経済は、戦争の影響で一時は一〇%を越える急速なインフレを体験することになった。経済状況が思わしくない中で、金融緩和の解除と政策金利の引き上げを進めている。この六月にフランスで起きた暴動は、長年にわたる移民系住民への不平等な待遇もさることながら、マクロ経済環境が思わしくないことも要因にあると考えるべきだろう。

 日本は他の主要国とは違う独自の道を歩んでいる。原材料の高騰や円安の影響で日本でもインフレは始まっているが、ペースは緩やかだ。消費者物価の上昇率は、昨年はプラス二・五%、今年も予測では二%台後半と、他の主要国に比べて低い。そのため、金融政策に(この原稿を書いている時点では)大きな変更は見られない。他の主要国が利上げに転じてインフレ退治に向かう中で、ひとり日本だけが、大規模な金融緩和政策を継続している。

 とはいえ、世論の風当たりは次第に厳しくなっている。 インフレ率が米欧並みに上昇する前に、今の金融緩和政策を見直すべきだという声が日増しに強まっているからだ。 物価の上昇に賃金の上昇が追いついていないため、生活が 苦しくなっているというマスコミの報道も、こうした声を後押ししている。

 最近は増税論まで浮上している。今、岸田政権が盛んに発信している増税論は、インフレ対策というよりも防衛費増額などの予算拡張に対応したものだが、今後、インフレの進行が続けば、財政再建論の流れでの増税論も勢いを増すだろう。

 バブル崩壊以後の日本の経済政策には共通のパターンが ある。経済危機が発生すると最初は景気刺激策をとる。状 況がようやく改善した頃に財政再建論が台頭し、政策規模が縮小された頃に次の新たな危機に見舞われる。ようやくコロナから解放され、インフレも目標値を上回って景気が上向いた頃に、政策転換が行われ、すぐに次の危機が直撃する。このままいけば、同じ事を芸もなく繰り返すことにもなりかねない。

 

インフレの何が問題か

 もちろん、今のインフレが諸手を挙げて歓迎できない事態であるのは確かである。では、その得失はどこにあるの か。一九二〇年代にケインズが展開した有名な議論を手がかりに考えてみよう。

 一九二〇年代は、今と似た物価変動の激しい時代だった。第一次大戦は欧州各国で広汎な戦時インフレをもたらした。インフレは終戦後に落ち着き、一九二〇年にはデフレが始まる。一方、敗戦国のドイツでは一九二一年後半からインフレが加速し、やがて歯止めが利かなくなった。いわゆるハイパーインフレの始まりである。

 こうした同時代の状況をつぶさに観察したケインズは、一九二三年に出版された『貨幣改革論』で、デフレとインフレ、それぞれの違いを分析した。ケインズが注目したのは、物価の変化がもたらす再分配効果である。

 その議論を一言でまとめると、予想外のインフレは債務者に有利、債権者に不利、ということになる。平たく言えば、借金をする側が得をし、貯蓄する側が損をするということになる。

 インフレになると、名目の収入は上がるが、借金の価値は変わらない。一般に金利は、物価の上昇に比べて遅れて上昇するので、名目所得の上昇は債務者にとって有利に働く。インフレで収入は増えるのに利払いは低いままなので、借金を返すのが楽になるからだ。デフレは逆の結果となる。借金の額面は変わらないのに名目所得が減るため、借金の返済が苦しくなり、債務者の破綻が相次ぐことになる。

 ケインズはこのことを、階級別に分けて分析した。まず、インフレで損をするのは、金利生活者階級である。デフレ(またはディスインフレ)の時代には、中産階級は盛んに国債に投資をしていた。物価は全般的に低下するが、金利はゼロ以下にならないので、債券保有者はプラスの金利収入を得ることができた。したがって保有債券の利子で暮らす層にとっては、デフレの方が望ましい。利子収入がある上に、物価下落でモノが買いやすくなるからだ。

 一方、インフレは企業家や労働者にとってプラスになる。物価上昇は企業の名目収入を増やし、債務を圧縮する。金利が物価ほどは上昇しない(つまり実質金利がマイナスとなる)状況の下では、借り入れによって投資する企業家階級が受ける恩恵は大きい。また、労働者も賃上げを実現しやすくなる。企業の名目収入が減るデフレ期には賃上げを求めにくいが、名目収入が増えている状況では要求しやすくなるからだ。

 デフレ期には債権者が得をし、債務者が損をするが、予想外のインフレが起きると、債務者が得をし、債権者が損をする。どちらが望ましいのかという問いにケインズは、ドイツのように極端なインフレでない限り、デフレの方が悪いと答えた。デフレによる投資の縮退は景気の悪化と倒産・失業の増加、すなわち企業家・労働者階級に不利益をもたらすが、その逆にインフレは名目債務契約の圧縮を通じて債務階級、特に企業家階級に利益をもたらすからである。──これは実際に一九二〇年代のドイツで起きたことだった。ハイパーインフレはすさまじい社会秩序の崩壊をもたらしたが、一部の企業家はインフレによって大きな利益を得たことが知られている。

 現代はどうか。百年前と違い、現代では純粋な金利生活者階級は存在しないが、近いところを探せば、年金生活者がそれにあたる。物価上昇が進んでも、年金は同じ率で増額されないので、生活は苦しくなる。銀行に預けても利子は増えないので、預金資産は目減りする。

 企業家にとっては、物価上昇は悪いことばかりではない。デフレ期に拡大の一途を辿った債務が圧縮されるからである。今後もインフレが続けば、資産を現預金で保有することが不利になる反面、追加的な借金による設備投資が有利になる。日本経済が完全にデフレを脱却し、穏健なインフレが予想されるようになれば、内部留保は減り、設備投資など国内投資に上昇圧力がかかるはずである。

 もちろん、以上は大雑把な階級分析である。年金生活者でも、リスク資産への投資を積極的に行う人はインフレによる恩恵を受けるかもしれない。反対に、銀行預金などで資産価値を手堅く防衛してきた企業家や労働者にとっては、インフレによる打撃が大きくなる可能性がある。

 現在の日本で危惧すべきは、インフレによる中産階級の貧困化だ。働き方の多様化が進む現在では、労働者の階級的な連帯は希薄であり、労働組合の力も弱体化している。 賃金上昇を求める階級的な政治的圧力が弱いため、物価の上昇に賃金の上昇が追いつかず、したがって予想外に進行するインフレは、普通の労働者の生活苦に直結してしまう。年金生活者や一般労働者の所得が停滞したまま、消費者物価の上昇で生活苦が拡大する現象は、しばしばスクリューフレーションと呼ばれる。中間層の生活が締め付けられる「スクリューイング」と、物価上昇を意味する「インフレーション」が同時進行する事態を指し示す近年の造語だ。

 こうした事態を回避するには、インフレによる企業利益の増加に合わせて、賃金を上昇させるしかない。ケインズの言う通り、デフレかインフレかの選択では、緩やかなインフレの方が望ましい。経済全体の債務を圧縮するので、新規の設備投資や新規の起業を後押しする効果があるためだ。一方で、インフレは社会の一部に過度な負担を強いてしまう。これからリスクを取って資産を増やそうとする層にとってはプラスに働くが、すでに蓄積した資産を防衛しようとする層にはマイナスに働くからである。今後、インフレがさらに進行する事態になるなら、インフレによって不利益を被る層を見極め、適切な政策介入を行うことは不可避となるだろう。

 

債務国家は「市場の民」に影響される

 もう一つ、インフレには重大な効果がある。それは政府の債務が圧縮されるという効果である。・・・<本誌に続く>

(『表現者クライテリオン2023年9月号』より)


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