【橋本由美】『カッサンドラの日記』7 組織の強靭性と雇用流動化

橋本 由美

橋本 由美

 今ほどゼネラリストが求められる時代はないのではないか。世界が密接に繋がり複雑に影響しあう時代には、俯瞰的な視点が一層要求されるようになる。しかし、現実はあまりにも専門化が進み、それぞれの分野が高度な知識を必要とするようになっていて、ゼネラリストが出現することすら難しくなっている。一朝ことあればその道の専門家に馳せ参じて解説を委ね、大いに納得した気になるが、なかなか全体像が掴めない。どんなに優秀な頭脳でも、ひとりの人間にできることには限度がある。人間が組織をつくる理由のひとつはそこにあるのではないだろうか。三人寄れば文殊の知恵、複数の人間による知識の交換と、その刺激による相乗効果が、広い視野と戦略を可能にする。

 最近新聞紙上を賑わせている言葉に「雇用流動化」「リスキリング」がある。6月に閣議決定した骨太の方針で、日本経済の活性化のためには労働生産性を高める必要があり、労働力を生産性の低い分野から高い分野に移動させるべきだという方向が示されたためである。現代では高い生産性には情報通信関係の知識や技能が欠かせない。人口減少による人手不足はますます深刻になるために、高齢労働者の転職や再雇用の促進を検討しなければならない。しかし、高齢になるほどその分野は不得手であるから、リスキリングで鍛えて少しでも戦力を増強したい。長期雇用で手にする退職金は「後払い給与」のようなものだから、有利な退職金のために転職を避けることがないように、長期雇用保障のための税制を見直して、雇用流動化を活性化させたい。簡単に言ってしまえば、そのような方針だろう。

 ここで労働生産性というのは、単位時間当たりに生み出す経済的価値をいうのだろう。高い賃金はどんな働き手にとっても魅力的であるから、好条件を提示されれば転職に躊躇しない。しかし、労働力は均一ではない。高い生産性を持ち、要求される条件を満たす労働者はそれほど多くない。リスキリングで「稼げる」労働者に変身できる数にも限度がありそうだ。年齢が上がれば適応力は落ちて、転職によって収入が下がるのが現実だ。そんなに簡単に収入増加に繋がる魔法の再教育があるのだろうか。それができる人間はとっくに実行に移している。学習に不向きで生産性の低いままの労働者だけが残される企業は、それこそ生産性の低い企業であるから、潰れるかもしれない。しかし、それは産業界の再編成を促し、日本経済全体にとって必要な痛みなのだから仕方ない。労働力を生産性という数値基準の能力で評価して適材適所に配置することは、日本の経済力を回復させるためにはやむを得ないことで、せっかく政府が応援しているリスキリングに積極的でない労働者は努力が足りないのだから収入が減少しても仕方がない。……まあ、ざっとこんなところが本音なのだろう。

 

 素人の私には、そのような政策に異議を申し立てる資格はない。ただ、どうしても違和感を覚える問題がいくつかある。そのひとつは、生産性の低い分野に大きな需要が増え続けていることである。非製造業の中でも、例えば、医療・介護の現場で末端を担う労働力に、国家経済を牽引するような高い労働生産性は望めない。この分野でも技術面での改良で是正される余地はあるが、最後の最後は人間の力でマイナスの生産性をゼロに引き戻すような地道な仕事であり、生産性が低いために賃金も上がらない。しかし、生産性が低いからと言って、排除できる分野ではない。雇用流動化によって、稼げる労働力とそれ以外の労働力の格差は、いま以上に広がりそうである

 もうひとつは、組織の在り方である。組織とは、一定の機能を持ち、全体として結合を保っているものである。行政組織としての官僚制や社会組織としての民間団体など多くの組織があるが、骨太の方針で対象にしているのは、主に経済組織であろう。つまり民間企業である。チェスター・バーナードの「組織の3要素」によれば、組織成立のためには「共同目的」「コミュニケーション」「協働意欲」が必要だという。企業としての経済的利益という目的のために、知識や情報を交換して意思疎通を図り、企業目的の達成に伴って各役割を担ったそれぞれの労働者の満足感や達成感も同時に実現するような企業が理想的な組織と言えるだろう。満足感や達成感というのは個人的な感覚で、合理的な基準を作るのは難しい。しかし、個人の力で個人の目的を成就するのとはまた別の、仲間と一体になって困難を乗り越えたときの達成感には、格別なものがある。同じ釜の飯を食った者の連帯感である。戦場での窮地を戦友たちと力を合わせて突破するとき、団体スポーツで仲間の勝利のために犠牲を厭わない精神、このような心理的な要素は合理性では測れない。それでも、そのようなチームは強い。

 組織はときとして悪者になる。組織が安定化して、協調の強要や個人の自由の束縛で秩序や規律を保とうとするようになると嫌われる。昭和の高度成長期は会社組織全盛の時代だった。(モーレツ社員とか企業戦士とか会社人間とか、そんな言葉もありましたね……。)好景気で給与が上がれば少々の不満にも耐えられるが、デフレが長く続く今の時代では、みんなが自分のことだけで手一杯になり個人の殻に引きこもって、組織の干渉を嫌うようになる。そんな社会だからこそ、経済を好転させるために政府は雇用流動化を急ぐのだろうが、高い賃金に惹かれて移動してきた社員は、他にもっといい条件の職場があれば再びさっさと他に移動していくかもしれない。移動することで生産性がより上がるなら、政府の目的に叶っているのだから、遠慮することはない。そんな移動労働力ばかりの企業になったら、その企業が危機に陥ったとき、社員に簡単に見捨てられるだろう。

 長期雇用体制が非効率的で、雇用流動性が生産性を伸ばすとしたら、組織は何のためにあるのだろう。理論上は正しいのだろうが、働く労働者を取り換えの効くツールとして扱えば、いずれ労働力は非正規雇用者のような使い捨ての部品になってしまう。実際に機械やロボットが役割を担う分野もある。更に、その担い手を移民で補完しようとしているが、彼らはただの部品ではない。彼らもいずれ高齢化して働き手ではなくなり、彼らの社会保障の負担は国民の税金である。移民の最大の目的は賃金だから、組織に愛情や忠誠心を持てという方が無理な話で、損得勘定で移動する。その時の利益を最大化するためだけの人材を寄せ集めるような組織は、短期的には業績を伸ばせるかもしれないが、組織として戦略的な発展や成長が可能だろうか。私たちが求める職場は、金銭の契約だけで繋がっているような職場ではないと思う。給与は重要な条件ではあるがすべてではない。損得勘定だけの殺伐とした職場に居れば「鬱」になる。精神疾患を招きかねないような職場には、いくら賃金がよくてもいい人材は集まらないだろう。働き手側にも価値観がある。その企業で働く意味が金銭だけになったら、強固な組織力は保てない

 雇用流動化で生産性を高め、経済的利益が増加したとして、その受益者は誰だろう。労働者の給与に反映されたとしても、もっと大きな利益を手にしたいと望んでいる貪欲な者がいる。株主である。巨大な利益を期待できる企業の後ろには、国際的な機関投資家が待ち構えている。投資家は労働者の価値観など考えない。労働者は、その組織で働く意味を見出せるような企業を求めているのではないだろうか。労働力を生産性だけで評価して、彼らの価値観を満たせない組織は、いったい何のためにあるのだろう。まるでグローバル投資家のために存在しているようだ。雇用流動化は、評価基準を一律にすることで労働力の格差と分断を促進するだけでなく、その利益をグローバル投資家に貢ぐようなシステムに思えてならない。労働市場で集めた人材が組織の長期戦略に寄与するだろうか。流動性はカンフル剤になっても、企業の長期戦略にはマイナス要因になる面もありそうな気がする。

 組織の柔軟性は、組織を取り巻く環境への適応力でもある。変化の激しい環境に対処できる柔軟性、組織の危機にともに立ち向える労働者との価値観の共有が、組織を強靭にする。需要の開発などの「価値観」の創出能力が組織を発展させるとしたら、「コミュニケーション」や「協働意欲」の基本にある健全な人間関係を疎かにできない。以前のようなモーレツ社員の時代の、強要された愛社精神はいびつだが、組織の健全な発展には、やはり長く勤めていたいと思わせる精神的要素が求められるのではないか。同時にそんな従業員に受け入れられる倫理観が経営側には必要だろう。それがなければ、歓びを共有する「協働意欲」は得られない。「雇用流動化」の推進がアトム化した労働者の増産にならないといいのだが……。アトム化して相互作用のない知恵では何人寄っても「文殊」になれない。更に、国際競争だけに目を向けるのではなく、地域の活性化のための魅力的な組織づくりも大切なのではないか。中央の企業に生産性の高い人材を集中させることが国際競争力をつけるとしても、雇用流動化を地方にも適応させることができるインセンティブを持つ組織があれば、少子化対策の一助にもなる。……どれも簡単なことではない。国際競争に晒された組織の姿は、満身創痍の日本という国の縮小版に見えて来る。

 


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