『カッサンドラの日記』11 昔々のイスラエル起源の物語

橋本 由美

橋本 由美

 聖書時代のイスラエルの物語である。

 ユダヤの人々は長い間、聖典の内容を事実と信じていた。ユダヤ教から派生したキリスト教も、イエスの言行を記述した『新約聖書』と共にユダヤの聖典を『旧約聖書』として守ったため、『旧約聖書』の物語は多くの人々に知られていた。但し、まだグーテンベルクが登場する以前には、書かれた聖書を実際に読める者は一部の聖職者に限られていた。写本の数も少なかったし、文字を読める者も殆どいなかった。人々は、聖職者から口承で聖典の物語を説教として聞いていた。ユダヤ教徒もキリスト教徒も、ずっとずっと昔から、そうやって彼らの神を信仰してきた。

 『創世記』の冒頭で、創造主は、まず「光あれ」と言って、昼と夜とを分けた。「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と書かれている。私たちなら、まず朝が来て一日が始まると考えるが、ユダヤ教では一日の始まりは日没である。創造主は、第五日までに自然界を完成させて、いよいよ第六日に人間を造る。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」そのあと、神は人間に祝福を与えて「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と、命じて、翌日は休暇を取ってしまう。ここで、神が人間を創造するときに、男と女を同時に造ったことにお気づきだろうか。(聖書の文は「共同訳」による)

 ところが第2章では、こんな風に書かれている。天と地を造ったあと、雨という現象がまだなく、そのために木も草も存在しないときに、神は地下水で潤う土地で泥んこ遊びをして人間を造る。土の塵(アダマ)から作ったアダムである。そのときはまだ「アダム」とは呼ばれていない。神は、彼の食料調達のために草や木を造り、そのあと、人が一人でいるのはよくないと言って、また土をこねて獣や鳥を造り、人間に名前をつけさせる。そしてやっと人間の相棒が必要だと気がついて、彼の肋骨からイヴを造る。

 つまり、『創世記』の冒頭と第2章では、天地創造のプロセスが全然違っているのだ。「男女を同時に造ったのか、それとも男が先か」という違いだけでなく、「自然界の動植物を造ったのが先か、人間を造ったのが先か」という違いもある。私たちにお馴染みなのは、この2つの話をミックスした物語「神は天と地と自然を先に造り、最後に人間を造った。まず男を造り、彼の肋骨から女を造った」と言う伝承である。実は、聖書には、細かく見ればこの他にも多くの矛盾した記述がある。けれども、シナゴーグや教会で司祭が語る聖書の物語を聞いていた人々は、司祭の話したことを信じ、実際に読み比べることはできなかった。矛盾が問題になったのは、印刷された聖書が人々の手に届くようになってからである。

 『旧約聖書』の中でも『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の5つは「モーセ五書」(ユダヤ教では「トーラー」)と呼ばれ、モーセがユダヤ教の基礎を作ったとずっと信じられてきた。オランダのユダヤ教徒の家に生まれたスピノザは1670年に出した『神学・政治篇』において聖書記述の矛盾を解く過程で、「モーセ五書」はモーセの時代(前13世紀)ではなく、バビロン捕囚時代(前587~538)に司祭の家系のエズラがまとめたものだと考えた。スピノザは当時の危険思想の持主にマークされてヨーロッパの大学に職を得ることができなくなり、生涯レンズ研磨工として生計を立て、44歳で亡くなった。その後、19世紀のオリエントブームが聖書記述の矛盾解明に一役買うことになり、スピノザの推測が正しかったことが証明される。17世紀以降、ヨーロッパによる世界分割と植民地化が加速されると、ヨーロッパに異国の珍しい文物が流入し、彼らの好奇心や異国への憧れを刺激するようになった。チャールズ・ダーウィンがビーグル号で世界を回り、アングルやドラクロワがオダリスクの絵画を描き、多くの資産家や学者がエジプトやギリシャ、トルコなどを探検して考古学的な発見が相次いだ。シュリーマンがトロイの遺跡を発見して、ホメロスの叙事詩に書かれたトロイ戦争が歴史的事実であったというニュースは人々を興奮させた。このようなブームの中で、考古学者たちはチグリス川流域の古代アッシリアのニネヴェの遺跡(現・イラク)で楔形文字の粘土板を発掘した。彼らはシュメール語で書かれた粘土板から、『旧約聖書』の神の言葉がユダヤの神のオリジナルではないことを発見してしまう。粘土板には、ノアの洪水の物語の原型が書かれていたのだ(『ギルガメシュ叙事詩』)。

(「グランド・オダリスク」アングル)

(ギルガメッシュ叙事詩が書かれた粘土板の一部)

 こうした発見によって、聖書の文章を分類整理しようという恐ろしく困難な課題への挑戦が始まった。そして、研究の結果、聖書の成り立ちをほぼ特定する仮説を導き出す。これを文書仮説という。聖書の内容が「それ以前からあった何らかの資料」に基づいて書かれていると仮定し、仮定の資料を主にJ資料・E資料・D資料・P資料の4つに分類した。各資料の内容から作成年代を割り出し、J資料が最も古く紀元前1000~800年頃、前900~800年頃にE資料、最後のP資料はバビロン捕囚時代だろうと推測された。一番新しい資料がバビロン捕囚時代のものならば、「モーセ五書」は、スピノザが推測したように、エズラによって整理されたものだと考えられる。バビロン捕囚は、イスラエルを継承したユダ王国が新バビロニアに征服され、人びとがバビロンに強制移住させられた苦難の時代をいう。過去の資料を整理して「モーセ五書」と呼ばれる民族の歴史と律法をまとめたのは、土地を失った民族が、祖先の記憶を忘れず、人びとの生き方の指針を示して団結を守るために必要なことであったのだろう。

 このとき用いられた資料の中で、最も古いものがJ資料(ヤーヴェ資料)である。それでは、何故、この時代・紀元前1000年頃に民族史の編纂事業が始まったのだろうか。この地域では、当時、どんなことが起こっていたのだろうか。それはイスラエル統一国家の成立である(前1020年頃)。イスラエルという名称は「神に打ち勝った者」という意味で、イスラエルの「エル」は神のことである。アブラハムの子イサクの子であるヤコブが、神と格闘して勝ったときに、神がこれを祝福して「これからはイスラエルと名乗れ」と命じたことに由来する(創:32,29/ 35,10)。ヤコブ即ちイスラエルの子孫の国が「イスラエル」と言われた。『旧約聖書』には、同じ神がヤーヴェ(ヤハウェ)と呼ばれる文章とエルと呼ばれる文章が混在している。このことから、両者は系統の異なる伝承と考え、それぞれをJ/ヤーヴェ資料、E/エロヒム資料として分類した(エロヒムはエルの複数形)。

 ノアの子孫のアブラハムはメソポタミアのウルの出身で、父(または母)に従ってハラン(現・トルコ)に住んでいた。そこに神の命が下って、妻のサラ、甥のロトと共に長い放浪の旅に出る。アブラハム一行は苦難の旅を続け、その亡骸は妻のサラを葬ったカナンのヘブロンに共に埋葬される。神は旅の途中で、アブラハムの子孫に土地を与える約束をしたことから、この放浪の旅は「神との土地取得の約束」のための旅で、後に約束された土地は寄留地カナンであると考えられるようになった。約束の地カナンは、当時シリア南部からナイル川東岸にかけての地中海沿いの広い地域を指していたようで、アブラハムの放浪中には約束の地の詳細がどこであるか、アブラハム自身にも明かされない。

 イスラエル統一国家が出来た背景には、前1200年頃から当時の二大強国であったヒッタイトとエジプトの力が衰えて来たという勢力図の変化がある。ちょうど青銅器時代から鉄器時代への移行期であり、超大国の間のカナンの地にあった都市国家群が没落し混乱状態に陥っていた。その原因はシリア地方や東地中海沿岸地方に「海の民」が侵入したことによる。「海の民」は古ギリシャ系の民族移動群の総称で、ギリシャ本土でドーリア人の移動やミケナイ文明の崩壊によって引き起こされたものである。地中海方面からの民族移動がシリア地域全体に波及していた。彼らは鉄器文明を持ち、その優れた武器によって破竹の勢いで勢力範囲を広げていた。「海の民」は「ペリシテ人(びと)」と呼ばれた。エジプトの衰退はペリシテ人との戦いによる消耗が原因だと言われている。それでも、エジプト軍はなんとか彼らの侵入を食い止めた。先に進めなくなったペリシテ人はガザからカナンにかけての地域に住み着いた。この地域が「ペリシテ人の地」即ち「パレスティナ」と呼ばれるようになる。但し、現在のパレスティナ人はアラブ系であり、この時代の「海の民」とは関係がない。

 同じころ、ペリシテ人と反対のヨルダン川方面からカナンに侵入していたのがイスラエル勢力である。エジプトのような巨大な帝国の支配下にあるときは、地域内は安定して質の高い文化を開花させるが、帝国の支配力が弱まると、帝国の圧力に向かっていた団結力が崩れ、内部抗争のエネルギーになる。強い勢力が緩むことで内部の民族・宗教・宗派・部族や血縁・地域主義など様々な結びつきの集団の争いが頻発し乱世になるのは、世界史的に普遍の現象である(今の世界でも同じことが起きている)。カナン地域には都市国家を作る部族もあったが、土地を持たないベドウィンと呼ばれる遊牧民もいた。その中にハビル人と言われる人々がいる。ハビルは「追い剥ぎ」「街道の盗人」という意味で、特定の血族や民族の名称ではなく、集団の様子を表したあまり好意的でない呼称である。ハビル人は、ステップに住み、農耕をせず、定住せず、生肉を食い、治め難い卑しい集団と蔑視された被差別集団だったようだ。彼らは流浪の民で、羊や家畜を連れて群れを作り、都市を渡り歩いてはそこで傭兵や雑用の仕事をもらって、城壁の外でキャンプ生活をしていた。このハビルがヘブライのことではないかと言われている。彼らの中に、ヤーヴェ信仰をもつ集団が複数あり、緩い仲間意識を持っていたらしい。

 ペリシテ人の侵入でカナン地域が混乱状態に陥ったとき、ヘブライ人の集団も自分たちの土地を求めてカナンに侵入した。彼らは、そう簡単にカナンの地を征服したわけではない。ペリシテ人はそれまでにない強敵であった。困難な戦闘の過程で団結を必要としたことがイスラエルと言う集団を生んだ。同じ神への信仰をもつ集団が力を合わせて戦い、カナン人の都市国家群に攻め入り、ペリシテ人と戦ったのである。彼らをイスラエル12部族と呼ぶ。聖書の「族長物語」によれば、ヤコブには12人の息子があり、12部族はそれぞれの息子の子孫だと言われている。各部族が同一の祖先を持つという物語を創作することで、12部族が団結したのである。この部族同盟が「ヤコブの子孫の同盟」、即ちイスラエル軍事同盟である。

 同じ祖先をもつという物語を捏造して仲間意識を高め、長い戦乱を戦ったのは、彼らも土地が欲しかったからである。時代は狩猟から農耕への移行期で、農耕のためには土地が必要だ。カナンという地域を奪うために創作されたのが、遠い祖先のアブラハムと神による「約束の地」であった。遥か昔からこの地は、神によってイスラエルに与えられることが決められていたのだと、カナンへの侵攻と支配を正当化したのである。

 12部族のひとつ南部のユダ族出身の軍人ダビデが、ペリシテ人に勝って勢力範囲を広げ、イスラエルはそれまでの軍事同盟から領土国家となる(『サムエル記』)。国家建設の話はとても長いので此処では紹介できないが、エルサレムにだけ触れておく。ユダ部族が居た南部地域と北部10部族との間には、カナンの先住民エブス人が住む地域があり、統一の妨げになっていた。ダビデはこの地域を攻めてエブス人のシオンの要塞を陥落させ、要塞のあったシオンの丘に新都を建設してダビデの町とした。これがエルサレムである。放浪時代から移動の度に持ち運んでいた「契約の箱」は、モーセと神のシナイ契約の律法(十戒)を刻んだ石板を納めたものと言われ、神の啓示の顕現の証である。ダビデは、その「契約の箱」を群衆の前でエルサレムに搬入し、此処をヤーヴェ信仰の聖地とした。シオニズム、シオニストという語は、シオンの丘に由来する。

(シオンの丘)

 ヤーヴェ神の信仰はベドウィンの放浪時代からあったものだが、それが民族の歴史として編纂されるのがイスラエル統一国家建設の時期になるのは、国家としての権威づけのためである。ヤーヴェ資料は南部の伝承であり、エロヒム資料は北部の伝承である。英雄ダビデの属する南部の伝承と、北部の仲間たちの伝承を重ねることで、イスラエル内の部族同士の結束を強固なものにした。

 古今東西、諸書が語る出来事の提示には、その編纂者の意図がこめられている。歴史に先立つ意味はない。多くは原因譚(etiology)による理由付けであり、その時点の事態を過去の出来事から説明しようとするものである。「約束の地カナン」も「イスラエル12部族」も、イスラエルとしての集団に正当性を持たせ、領土を正当化しようとする当時の編纂者の意図がある。原因譚による正当化は、現代でも国家が用いる常套手段である。ロシアやウクライナの歴史観にも、中国による領土拡大の正当化にも同じような理屈がある。民族の記憶と土地の記憶は分かち難い。

 イスラエルの王国は、結局は滅ぼされてしまい、歴史上ユダヤ民族がこの地を統治していた期間は短い。彼らは世界中に散らばって国土を持たない民族となったが、イスラエル建国の栄光の記憶はバビロン捕囚時代の苦難の記憶の強さと合わせ鏡のようになって、同胞意識の結束を強めた。被差別集団としてのベドウィン時代、エジプトでの奴隷体験、バビロン捕囚という苦難辛苦の連続ゆえに、かえってダビデやソロモンの栄華の輝きが強烈に記憶される。選民意識と被害者意識の強さが他文明との同化を難しいものにして、中世以降も更なる差別的な扱いを招いてしまう。カナンの地は、エジプトやアッカドやバビロニア、ペルシャやローマやトルコなどの支配を経て、様々な民族が流入し、共存し、対立し、争いながら現在に至っている。紀元前のイスラエル統一国家建国の時代には、まだイスラム勢力は存在しなかった。第二次大戦後のイスラエルの建国は、その複雑な地域に投げ込まれた小石で、投げ込まれたときから波紋を広げた。苦難の記憶に固められた民族の被害者意識の呪縛が、ただでさえ複雑なこの地域で民族間の報復の連鎖を招くとしたら、とてもとても不幸なことである。

 


〈編集部より〉

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