能登半島地震の発生から1週間後の1月8日に前新潟県知事の米山隆一衆院議員(立憲民主党)がX(旧Twitter)に「復興より移住を選択するべき」との持論を投稿したことが物議を醸しています(注1)。
「非常に言いづらい事ですが、今回の復興では、人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択することをきちんと組織的に行うべきだと思います。地震は、今後も起ります。現在の日本の人口動態で、その全てを旧に復する事は出来ません。現実を見据えた対応をと思います」(太字引用者)
この米山氏の投稿は広く拡散され、Xでは「維持困難な集落を抱えている新潟県の知事を務めた米山氏の発言だけに重みがある」「今後避けられない行政上の課題だと思う」「現実的な提案だ」など賛同する声が上がる一方で、「過疎化した地域を見捨てるのか」「移住をするもしないも個人の自由」「いま発信する必要があるのか」など批判的な反応も寄せられており、ネット上で賛否が巻き起こりました。
ネット上での反響を受けて、米山氏は次のように自らの真意を補足しています。
「誰も『復興を諦めろ』とも『強制移住しろ』とも言っていません」
「『復興は生活再建のリソースが揃っている地域の人口集積地に人を集める形で行うべきだ』と言っています。復興はしたら終わりではなく、そこに住み続けます。10年、20年後の事を考えたら、本人にとっても地域にとってもプラスは大きいです」
「地方に住んでいるからこそ…櫛の歯が抜ける様に周辺地域から街場に人が集まって行く現状が分かるんです」「地方の中山間地で高齢者が生きていける環境を持続する事の大変さや、今行われている苦労を知らない人こそが、情緒的かつ安易に、集積的復興を否定している様に私には見えます」
「『地方を見捨てるのか!』と言う人は、あと僅か25年で3~4割人口が減るのが確実な状況で、どうやって従前のインフラを維持するのか、その具体的手段を示して頂きたいと思います。ただ単に今迄通り維持するなら、単純計算で税金を現在の1.5倍にせざるを得ません。そんな事が本当にできるのかと思います」
「今の人口動態を反転させるのは極めて困難か、不合理なほど過大なエネルギーを要します。今、放っておいても、地方レベルでも人口集中は進んでいるのであり、その流れを可能な限り合理的に誘導する方が、ずっと現実的で効果的です」
「お金をかけて水道や道路などのインフラを復旧しても、人がいなくなれば閉じる必要があり費用もかかる。地震が起こり、(インフラを)造り替えなければいけないこのタイミングでどうするのか考えるべきです」「冷たく聞こえるかもしれないが、本人や地域のためにも合理的に考えなければならないのではないか。被災地を文字通り元に戻すことに、必要以上にこだわるべきではない」
この度の能登半島地震をきっかけに提起された「過疎化が進む被災地は復興を諦めて住民を移住させるべきではないのか」という議論は、米山氏によるものだけではありません。
人口減少の段階に突入している日本において「20年後に消滅する地域に多額の税金を投入すべきか」「放っておいたら無くなる集落まで復興の対象とすべきか」「何がどこまで公費で救済されるべきかを線引きすべき」などといった、過疎化が進む被災地の復興に資金を投下することを否定的に捉えて「復興ではなく移住(集団移転)を推進すべき」との主張を展開する議論や、「コンパクトシティ」の概念を拡張して「コンパクトシティ・プラス・ネットワークの推進」を掲げる「立地適正化計画」(国土交通省)を高く評価して「地域の存続をも考慮した現実的な施策であり、推し進めるべきである」とする議論など、ここぞとばかりに「復興より移住」論が展開されているように見受けられます(注2)。
これらの「復興より移住」論では、あくまでも当事者である被災者の意向を尊重しているかのごとく装いながら「『復興を諦めろ』とも『強制移住しろ』とも言っていない」「被災地の復興を目指すだけでなく、移住を選択肢に加えるべきである」と述べるとともに「被災地(人口が減少し続ける過疎地)の復興に要する莫大な費用」を強調していることが共通しています。
いずれの議論においても「被災地の復興」と「被災地から離れて移住すること」の2つの選択肢を提示してはいますが、「国民は住みたいところに住む権利があり、地域には長年にわたって育まれてきた土着の文化もあるので、そこに住む人がいる限り、可能な限り支援するべきだという議論」を「正論ではあるが理想論である」とし、「国の財源に限りがある中で、そもそも人口が減少し、将来にわたって地域や集落の維持が困難である地域の復興にどこまで国費を投入するのかという点は議論が避けられない」として「被災地を復興すること」のコスパ(費用対効果)の悪さを強調していることからも、「被災地の復興」を選択肢として掲げてはいるものの、「復興を諦めて移住する」ことが経済合理的であり、より望ましいと考えていることは明らかです。
地震と津波の発生から、わずか数日後の被害の全容さえ明らかになっていない段階で「復興ではなく移住」を提案する米山氏らの議論は、震災で打ちのめされた直後の被災者に過酷な選択を突き付ける「ショック・ドクトリン」(注3)であると看做さざるを得ないように思われます。
被災地の被害状況や個々の被災者の置かれた状況、災害の再発リスクなどの理由によって「移住(集団移転)」を選択せざるを得ないケースが決して少なくないということも紛れもない事実なのであり、我が国の災害法制において、「ハザードを避ける」ための制度として「防災集団移転促進事業」(注4)が位置づけられており、そのための特措法(1972年)が制定されています。
集団移転事業とは、「災害が発生した地域又は災害危険区域のうち、住民の居住に適当でないと認められる区域内にある住居の集団的移転を促進する」ものであり、災害の危険が明らかなエリアを移転促進区域として住戸を集団的に移転させ、元の土地を災害危険区域に指定するものです。事業主体は市町村でありますが、実質的には集落の自主性に基づくとされており、移転の判断はもとより、移転先の土地の選定・確保についても集落自らが深く関与することとされています。すなわち集団移転事業の多くは、小規模集落が自らの意思決定に基づき、ハザードを避けた比較的近隣の地域に移動し、再居住を果たすという一連の過程を支援する制度として運用されてきました(注5)。
経済学者である飯田泰之氏は、米山氏のXの投稿について「米山氏の問題提起は、過疎地を有する新潟県知事を務めた経験を踏まえており、突飛なことを述べている訳ではない」と述べた上で「我が国では集落移転は珍しいことではなく、そのために必要な法律や制度も既に整備されている。人口減少が続き、このまま放置しておくと消滅してしまう集落、例えば、10~20戸から成る孤立集落を近隣の100戸程度の集落に吸収する形で集約して次世代への継承が可能な集落を維持するべきである」と論じており、集落を集約する際の条件として「移り住む人びとにとって縁も所縁もない知らない場所ではなく、近隣で馴染みがある地域を選び、移り住む前の土地や仕事へのアクセスを維持し、神社や祭りなど年中行事も継続する」など集落を集約する前後での土地と人びとの暮らしの連続性を維持することが不可欠であることを提示しています(注6)。
人口減少と過疎化が進み、全国で孤立集落や限界集落が加速度的に増え続けている我が国の現状を鑑みると、まったく関係がない第三者が「移住すべきだ」と決めつけたり、強制したりすべきではないのは当然のこととして、当事者となる集落住民の意向と意思決定を尊重した上で、彼ら自身が望む暮らしと営みを維持・継続できるような形で「集落集約」を推進することについては一概に否定することは出来ないように思えます。
しかしながら、放っておけば消滅してしまうような孤立集落や限界集落を集約しただけで問題が解決する訳ではありません。人口減少や過疎化の速度を緩やかにするだけでは不十分であり、人口減少から増加へと逆転させる、もしくは少なくとも人口を減少させないための実効性のある手段を講じなければ、孤立集落や限界集落が消滅するまでの時間を十数年から数十年先へと延ばすだけの、単なる時間稼ぎにしかならないことは明らかです。
我が国で孤立集落や限界集落が増え続けていることは、決して歴史的な必然ではありません。この度の震災に襲われた能登半島地方をはじめとして、全国の至る所で進んでいる過疎化―孤立集落や限界集落の増加―は東京一極集中の完全なる裏返しであり、本来であれば、政府による政策によっていくらでも変える(=改善する)ことができる要素によってもたらされているのです(注7)。
「たられば」の話をしても詮無いことなのかもしれませんが、国民の間で「緊縮思想」が広く深く浸透してしまうということさえなければ、我が国が長年にわたってデフレ経済に苦しみ続けることはなく、これほどまでに東京一極集中や地方の過疎化が進むこともなかったはずです。さらには「防災・減災対策」に十全な投資が行われることで震災被害の肥大化を防ぐことができ、国土に「リダンダンシー(冗長性)」(注8)が確保されることによって、被災地の復旧・復興が遅々として進まないという事態に陥ることもなかったのではないでしょうか。被災状況や災害の再発リスクの高さなどの理由で居住し続けることが難しくなってしまった地域を例外として、孤立集落や限界集落を延命するための「移住(集団移転)」や「集落集約」を検討する必要などが生じることはなかったに違いありません。
『表現者クライテリオン』の藤井聡編集長が指摘している(注9)ように、この度の能登半島地震をきっかけに提起された、米山氏に代表される「復興より移住」論は、「緊縮思想」に取り憑かれた「被災地を放置することの方が、借金を増やすことよりもマシだ」との考えに導かれた「復興不要論」であると断ぜざるを得ないように思えます。
「復興より移住」論を唱える米山氏は「復興を諦めろ」とは言っていないと強調していますが、Xでの発言の真意を問われたインタビューで「日本の財政余力は落ちてきている。能登半島地震の復興資金はほぼ全額国債で調達することになり、今後の日本財政への影響は無視できない。地震で財政が悪化し、そのまま没落した国は歴史上複数ある。11年の東日本大震災の復興特別所得税もまだ払い終わっておらず、償還するための税金を今も国民が払い続けているのが現状だ」(注10)と答えており、図らずも自らが「緊縮思想」に取り憑かれていることを白状してしまっています。
本記事において「ハザードを避ける」ための制度としての「集団移転事業」、孤立集落や限界集落を延命するための手段としての「移住(集団移転)」や「集落集約」などの必要性を議論の俎上に載せていることから「復興より移住」論について肯定的に評価して論じていると受けとめられる方がいらっしゃるかもしれません。
この度の能登半島地震に限らず、震災が発生した場合に「被災地を復興させることを諦め、被災者を移住させる」ということは、国民国家としてあり得ない選択肢であり、国家としての総力を挙げて被災者の救護・救援と被災地の復旧・復興に尽力すべきであることは、改めて論ずるまでもない自明のことだと考えます。
我が国では長年にわたって東京一極集中や地方の過疎化を放置し、「緊縮思想」に囚われ、過てる「財政規律目標」を堅持し続けてきたことによって、国土を保全することが蔑ろにされ、道路をはじめとするインフラを維持するための投資を怠り、国土全体で「リダンダンシー(冗長性)」が失われてしまいました。その結果として、今回の能登半島地震の被害が肥大化してしまい、復旧・復興が遅々として進まない事態に陥ってしまったことを認識すべきです。
つまりは、長期の国家ビジョンを欠いて視野狭窄に陥り、短期的な利益ばかりを追い求め、「現実的」と称して安易な「経済合理的選択」をひたすら繰り返してきたことこそが今日の事態を招いたことに注意を向けなければならないのです。
いますぐ「国民の生命・財産」を守るための「国土強靭化」に向けて着実に取り組む方向に転換したとしても、「国土強靭化」を実現するまでには相当の時間を要することは否定できません。
その一方で、我が国の高齢化と過疎化が加速度的に進み、孤立集落や限界集落が増加し続けており、早急に実効性ある手を打たなければ、そう遠くはない未来に、少なくはない数の集落が消滅してしまうという事態が待っていることも紛れもない事実なのです。
私たちに残された時間は、そんなに長くはないのだと考えざるを得ないのです。
我が国が「防災・減災対策」をはじめとする「国民の生命・財産」を守るための取り組みを蔑ろにしてさえいなければ、ここまで国全体が疲弊してしまうことはなく、「移住(集団移転)」や「集落集約」などといった「集落の延命措置」は必要なかったに違いありません。しかし残念ながら、我が国は「国土強靭化」を成し遂げるまでの時間を稼ぐために「集落の延命装置」に頼らざるを得ないほどに衰退してしまっているのではないでしょうか。
災害復興に詳しい田中正人氏は、「減災及び復興の過程で生ずる社会的不平等」を論ずる著作(注11)において、我が国の減災・復興政策について、次のように述べています。
過去、繰り返す自然災害のもとで、どれだけ悲惨な被害を受け、どれだけ過酷な被災と被災後があったとしても、復興をあきらめた地域はこの国には存在しない。少なくとも20世紀以降、被災地は必ずまた立ちあがることを決意し、それを実現してきた。被災者も、為政者も、計画者も、支援者も、あらゆる立場の人間が、破壊された空間を再建し、失われた時間を取り戻すために力を注いできた。その経験の蓄積が、現在の政策を基礎づけている。次の災害に備え、できる限りリスクを減らし、被害を抑え、一日も早く回復するために、この国の減災・復興政策はかたちを整えてきた。欠陥を補い、誤りを正し、新たな課題に向き合いながら、時代の変化に対応してきたはずだ。それにもかかわらず、「復興災害」は起こり、ハサミ状に拡大する格差は厳然と存在する。復興過程には、そして減災過程には、看過しがたい社会格差の発現がある。(太字引用者)
田中氏が明らかにしてくれているように、「災害大国ニッポン」と称されるほど繰り返し震災に襲われてきた我が国が、その度に決して諦めることなく「被災地の復旧・復興」に尽力してきたことは間違いありません。
この度の能登半島地震において、「復興より移住」論が主張するような、被災者を移住させて被災地の復興を諦めなければならない理由は存在しません。「必ず復興を成し遂げる」との強い決意をもって、我が国の災害復興の歴史に新たな1ページを付け加えるだけで良いのです。
地震と津波の発生から1か月以上の時間が経過したにもかかわらず、被災地では未だにライフラインの復旧さえできていない状況の下、多くの被災者が厳しい避難生活を余儀なくされています。彼らに対して「お金がかかるから(被災者にとっての故郷であり、生活の場でもある)被災地の復興を諦めて、他所に移住した方が良い」と言ってしまう「復興より移住」論は、未だ苦しい状況に置かれている被災者をさらに痛めつける、鞭打つ行為であるように思えてなりません。
いま私たちが発するべきは、「復興を諦めろ」と被災地を突き放す言葉ではなく、「必ず復興を成し遂げる」という強い決意を表す言葉なのではないでしょうか。その言葉さえ言えなくなった「現実的」な国家と国民に未来はないのだと思います。
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(注1) 被災地一部は「復興でなく移住」で論争 米山隆一氏、「地方を見捨てるのか!」批判に反論「どうインフラ維持するのか」(J-CASTニュース) – Yahoo!ニュース
・被災地の「復興より移住を」 ネットで物議 米山隆一氏の真意は? (msn.com)
・【地方創生】能登半島移住論から考える地方集約方法|saiku (note.com)
・都市計画:立地適正化計画の意義と役割 ~コンパクトシティ・プラス・ネットワークの推進~ – 国土交通省 (mlit.go.jp)
・都市再生:コンパクトシティ形成支援 – 国土交通省 (mlit.go.jp)
・国土交通省「コンパクトシティ政策について」001273984.pdf (mlit.go.jp)
(注3) 「ショック・ドクトリン」とは、「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」のことであり、ある社会に壊滅的な惨事が発生した直後の、人々がショック状態に陥り、茫然自失のまま抵抗力を失っているときに、そのような衝撃的出来事を好機と捉え、巧妙に利用する政策手法のことです。
・ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン-惨事便乗型資本主義の正体を暴く(上)(下)』岩波書店、2011年
・ショック・ドクトリン (上) – 岩波書店 (iwanami.co.jp)
・ショック・ドクトリン (下) – 岩波書店 (iwanami.co.jp)
(注5) 田中正人『減災・復興政策と社会的不平等 居住地選択機会の保障に向けて』日本経済評論社、2022年
・日本経済評論社 – Books (nikkeihyo.co.jp)
・Amazon.co.jp: 減災・復興政策と社会的不平等: 居住地選択機会の保障の視点から : 田中正人: 本
(注6) 能登半島地震から考える 集落の集約/経済学者・飯田泰之教授【とっとり研究所】 – YouTube
(注8) リダンダンシー(redundancy)とは、「冗長性」、「余剰」を意味する英語であり、国土計画上では、自然災害等による障害発生時に、一部の区間の途絶や一部施設の破壊が全体の機能不全につながらないように、予め交通ネットワークやライフライン施設を多重化したり、予備の手段が用意されている様な性質を示しています。
(注10) 被災地の「復興より移住を」 ネットで物議 米山隆一氏の真意は? (msn.com)
(注11) 田中正人、前掲書
田中氏が、我が国の災害史及び減災・復興政策に関する詳細な研究で提示してくれている「我が国の災害法制そのものに内在する社会的不平等を生み出すメカニズム」については、また機会を改めて論じてみたいと考えております。
(藤原昌樹)
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