今年(2024年)2月17日、「平和学」の第一人者で、世界的に「平和学の父」として知られるヨハン・ガルトゥング(Johan Vincent Galtung)氏が死去しました(注1)。ヨハン・ガルトゥング氏は、1930年にノルウェーの首都オスロで生まれ、オスロ大学で数学と社会学の博士号を取得し、1959年に「平和学」の拠点となる「オスロ国際平和研究所(PRIO)」を創設しました。「平和学」という新たな学問分野を開拓し、差別や貧困など「構造的暴力」が平和を阻害するとの理論を打ち立て、平和研究の先駆的役割を果たしたとして高く評価されています。
生前のガルトゥング氏は、沖縄を巡る戦争や軍事基地の問題にも深い関心を寄せており、何度も来沖しています(注2)。
沖縄のマスメディアも、ガルトゥング氏の訃報を大きなニュースとして取り上げており、県内でゆかりのあった人から「巨星落つ」と彼の死を惜しみ、遺志を受け継ぐ声が上がったと報じていました。『琉球新報』は「沖縄を苦しめるさまざまな暴力を克服し、平和を実現する道を語ってくれた」「ガルトゥング氏が沖縄で発した言葉は今も県民の心に響く。提言は沖縄の平和行政、県が推進する地域外交にも生かせるはずだ」として「(ロシアのウクライナ侵攻など)ガルトゥング氏が求めた方向とは異なる事態が起きている。しかし、平和の歩みを断念してはならない」「『積極的平和』の理念を再評価し、磨きをかけるときである」とガルトゥング氏の功績を称賛しています。
昨年の拙稿(注3)でガンディーの「非暴力・不服従」の思想について論じた際に、ガンディーの言葉「平和への道はない。平和こそが道なのだ(There is no path to peace. Peace is the path.)」のガルトゥング氏による解釈を参照したことがあります。
しかしながら、私自身、ガルトゥング氏の著作の熱心な読者ではなく、「平和学」をきちんと学んできたという訳でもありません。完全に私の不勉強が原因なのですが、「平和学」を沖縄に蔓延る平和主義者たちのイメージと結びつけてしまい、ガルトゥング氏のことを非現実的な「夢物語」を流布する伝道師のような役割を果たす人物であると誤解して、彼が提唱する「平和学」を学ぶことを避けてきたというのが正直なところです。
沖縄でも大きく報じられていたガルトゥング氏の訃報についても、当時は何故か見逃してしまっており、つい数日前にネットで調べ物をしているときに偶然見つけて驚いてしまいました。
今後、沖縄に蔓延る「平和主義」について批判的に論ずるためにも、ガルトゥング氏が提唱した「平和学」を避けて通ることはできないと思い直し、訃報に接したことをきっかけにして、遅ればせながらガルトゥング氏の著作を読んでみることを決意し、まずは『日本人のための平和論』(2017年)(注4)を手に取ってみることにしました。
まず大前提として、ガルトゥング氏が提唱する「平和学」は「人間の可謬性」を前提にしており、「保守思想」と相通じるものがあるように思えます。
「保守思想」は進歩主義に対する抵抗から生まれた思想であり、進歩主義者が人間の理性に過剰な信頼を置き、理想社会の実現という設計主義的なビジョンを打ち出すことについて、その(進歩主義者の)傲慢な思い上がりに対して冷水をかける役割を果たしてきました。
「平和学」が前提とする「人間の可謬性」は、まさに「保守思想」の肝とも言える「懐疑主義的な人間観」と相通ずるものがあり、「平和学」と「保守思想」は高い親和性を有していると看做すことができるように思います。
ガルトゥング氏は、日本の平和を考えるにあたって、日米関係のあり方に関して様々な提言をしています。
中でも執筆当時大きな政治問題となっていた日本の「集団的自衛権」行使について疑問を投げかけていました。我が国の「集団的自衛権」の本質(実態)は、日本の「自衛」ではなく、米国の他国に対する軍事介入-米国による間違った行動-につき従うということであり、日本が自らの国益について熟考することなく、唯々諾々と米国に追従することが「あと戻りできない危険な道」であると論じて懸念を明らかにしています。
我が国が「個別的自衛権」と併せて「集団的自衛権」を有していること自体を否定すべきではありませんが、実際に「集団的自衛権」を行使するか否かについては、「国益に適うか否か」「国民の生命財産を守ることに寄与するのか」などの観点から慎重に検討しなければならないことは至極当然のことです。
現時点において、日本は未だあからさまな憎悪や復讐の対象にはなっておらず、日本国内では欧米の各地で起こっているようなテロは発生していません。しかしながら、今後も日本が米国に追随する姿勢を変えることなく、「好戦的国家アメリカ」が求めるがままに「集団的自衛権」の行使に踏み切るのであれば、近い将来、米国が世界で行っている間違った行動のツケが日本にも回ってきて、テロの標的となってしまうことも想定しておかなければなりません。
日本は「防衛・安全保障」について米国に追従し続けるのではなく、「集団的自衛権」を行使すべきかどうかも含めて、現在の「日本が米国に従属している関係」から脱却し、「対等な同盟関係」を構築することに向けて一歩踏み出さなければならないのです。
ガルトゥング氏は、いわゆる「沖縄問題」について「沖縄の人々を苦しめる基地問題は、一見解決不可能なように見えるが、実は解決策がある。すべての米軍基地を日本から撤退させればよいのだ」と明言しています。
しかし当然のことながら、「平和学の父」と称されるほど世界的に高い評価を得ているガルトゥング氏が「(沖縄から)全ての基地を無くせばよい」などと非現実な「夢物語」を語っている訳ではありません。「沖縄から撤退させるべきである」のは、あくまでも「米軍基地」のことであり、「沖縄を軍事的空白地帯にせよ」と主張している訳ではなく、「日本の防衛・安全保障は、日本の軍隊(自衛隊)が担うべきである」「日本は米国に頼ることなく自主防衛ができる体制を構築すべきである」と論じているのです。
「日米同盟」についても言及しており、「(沖縄から)米軍が撤退しても(安全保障上の)リスクは高まらない」「日本が他国に攻められたとしても、米国が日本を助けに来るとは思えない」との認識を示し、「日本が対米従属をやめて真の独立を果たすということは、沖縄から米軍が立ち去るということでもある」「米軍が日本から撤退したら、いわゆる核の傘は存在しなくなるが、そもそも『核の傘』自体が信じられるものではない。米軍撤退で日本の安全保障が弱体化することにはならない」と明言しています。
日本からの米軍撤退が実現した場合、日本は、本来の意味での独立国家として自ら意思決定をしなければならなくなりますが、それは米国と敵対することを意味するのではなく、日本と米国が対等な二国間関係を構築することに繋がると論じています。
日本に米軍基地が展開している根拠である「日米安全保障条約」については、「日本にとっての得策は、安保を維持しつつ、同時に日米関係におけるその他の要素を発展させていくことである」として「安保には手を触れないのが賢明であり、そうすれば、時間の経過とともに安保はその重要性を失っていく」のであり、「安保の無意味化」を目指すべきであるとしています。
沖縄問題の解決策として、ガルトゥング氏は「日本には米国に基地の撤退を求めること」を提案しています。それは必ずしも安保廃止を意味してはおらず、「攻撃的兵器から防御的兵器への軍備転換を検討すべきである」と結論づけています。その上で「日本に米軍基地を置くこと」以外に考えられる日本防衛の手段としては「専守防衛」と「長距離兵器の保有と核武装」のいずれかであるとし、日本は「専守防衛」の道を選択すべきであると強調しています。
ガルトゥング氏の「平和学」は、決して沖縄の平和主義者たちが主張する「全ての基地と武器を放棄すれば、平和を実現することができる」などといった「夢物語」を語っているという訳ではなく、極めて現実的な選択肢を提示しようとしているのです。
これまで論じてきたことから既に明らかですが、ガルトゥング氏は「専守防衛」について論ずるにあたって、改めて「私は無抵抗主義者ではない」と自らの旗幟を鮮明にしています。
「武力を完全に放棄することが可能であるならば、それに越したことはないが、歴史は、世界にはつねに戦争があり、他国を攻撃する国があるという事実を教えている。国を守るためには、外交努力だけでなく武力による防衛も必要であり、もちろんその武力は必要最小限のものでなくてはならない。武装解除(軍縮)が理想ではあるが、防衛のためには一定の武器保有は必要だと考えている」として「現実的な判断として、専守防衛に向けた軍備転換―攻撃的な長距離兵器から防衛的な短距離兵器への転換―をすべきである」との主張を展開しています。
「専守防衛」を正しく理解するためには、攻撃と防衛から成る軍事的安全保障戦略について、下記の4類型を認識しておく必要があると強調しています。
「自衛(Self-defense)」という用語は最初の3つに当てはまる曖昧な概念であり、議論を混乱させないためには、「専守防衛」と「自衛」は同じではないことをはっきりと認識しておくことが必要であると指摘しています。その上で、ガルトゥングが考える「専守防衛」は次の3つの要素で構成されるとしています。
以上のように「専守防衛」の概念を整理した上で、日本の防衛の「あるべき姿」について下記のように論じています。
日本には日本に適した国境防衛(沿岸の専守防衛)、領土内防衛(自衛隊による防衛)、非軍事的防衛(市民による非暴力不服従抵抗)があるはずで、是非それを追求して欲しい。これら3つを組み合わせるなら、いかなる国も日本に攻撃をしかけて占領しようなどと考えないはずである。もしどこかの国が、あえてそうしようとしたなら、たとえ国境線は突破できても、専守防衛の任務を担う強力な自衛隊の抵抗と、市民による不服従によって、その侵略者は日本から奪うより多くのものを失うだろう。
ガルトゥング氏によって提起された「専守防衛」の議論に触れたことで、かつて西部邁氏が『核武装論 当たり前の話をしようではないか』(注5)で展開した議論を思い出しました。
西部邁氏は、『核武装論』で次のように論じています。
「『核』はあくまで報復につかわれるべきものです。より正確にいうと、報復を予告しておくことによって相手からの先制核を防ぐ、それが自衛報復核の存在理由です」「(『核』を予防的先制に用いることは許されないとの)考えの根本にあるのは、相手の状況にかんする当方の予測はフォリブルである、つまり間違っている可能性がある、という認識です。それへの副次的な認識もあって、相手の(『核』による)侵略は、たとえその準備がなされていたとしても、実行に至るとはかぎらない、という点も無視できません。そのような場合、予防的先制(としての自衛)の核攻撃は、事前的には正当とみなされても、事後的には回復不可能な大被害を相手に与えてしまうでしょう」
日本防衛の手段として「核」に対するスタンス―ガルトゥング氏は「核保有」を否定しており、西部邁氏は「核武装」すべきであると論じている―が異なり、ガルトゥング氏が「専守防衛」を選択すべきであるとしているのに対して、西部邁氏が『核武装論』で提起している「防衛のあり方」は「長距離兵器の保有と核武装」に相当します。
「攻撃と防衛から成る軍事的安全保障戦略の4類型」のうち、ガルトゥング氏が「専守防衛(防衛的防衛)」のみを容認しているのに対して、西部邁氏が提起する「核武装論」は「専守防衛(防衛的防衛)」に加えて「攻撃的防衛」(但し、予防的先制は否定し、報復の手段に限定している)を手段の一つとして含んでいると考えられるなど、日本防衛に関する考え方は両者の間で大きく異なります。
一見すると、ガルトゥング氏と西部邁氏は「日本の防衛のあり方」を巡って対極に位置しており、相容れることがないようにも思えますが、両者ともに「人間は間違う可能性がある」という「人間の可謬性」を前提とし、予防的なものも含んで先制攻撃を否定しているところが共通しています。
詳細については、また機会を改めて論じてみたいと考えておりますが、現在、我が国を覆い尽くしている「防衛・安全保障については米国に任せておけばよい」とする「対米従属」を無批判に受け入れて肯定する議論や沖縄に蔓延している「絶対平和主義」に基づく「平和論」と、西部邁氏が提起する「核武装論」との間の距離は、とてつもなく遠く離れていると看做して間違いありません。その一方で、ガルトゥング氏の「平和学」と西部邁氏の「核武装論」と間の距離はかなり近接しているものと思えます。
ガルトゥング氏の「平和学」は、極めて現実的な「防衛・安全保障体制の構築」を提起しようとしていると言えるのです。
『日本人のための平和論』を素材にして、ガルトゥング氏が提起する「平和学」について考察してきました。これまでは、どちらかと言えば、「平和学」の肯定的に評価できる部分を取り上げてきましたが、当然のことながら、ガルトゥング氏が提起する「平和」を構築するための戦略を手放しで全て受け入れることができる訳ではありません。
例えば、同書で「領土問題」を論じているパートで、我が国が抱える領土問題である尖閣諸島と北方四島について「解決のための発想の転換が必要である」として、それぞれ実行可能な解決策として「日本と中国が尖閣諸島を共同所有すること」と「日本とロシアが共同で(排他的経済水域を含めて)北方四島を管理すること」を提案しています。
かなり魅力的な提案であると思えなくもないですが、この提案が成立するためには当事者―日本と中国、日本とロシア―が双方ともに「領土問題はゼロサム・ゲームではない」との認識を共有している場合に限られます。
仮に、ある領土を巡って、当方が「ゼロサム・ゲームではない」と認識して「共同所有」や「通行の自由」を確立しようとした場合、相手方が「ゼロサム・ゲームである」と認識していたら、領土を巡る全ての利得を相手方に奪われてしまう可能性を否定することができません。逆もまた然りであり、相手方が「ゼロサム・ゲームではない」と認識し、当方が「ゼロサム・ゲームである」と認識していた場合に、当方の「領土を巡る利得」を最大化することが可能となります。
すなわち、ガルトゥング氏の提案を実現するためには、当事者双方の間で「領土問題」は「ゼロサム・ゲームではない」との共通認識が成立し、信頼関係が構築されていることが前提となりますが、その共通認識や信頼関係を成り立たせること自体が極めて難しいことであり、世界中で解決が困難な「領土問題」が存在し続けていることが、図らずもそのことを証明しているように思えます。
「領土問題」を巡っては、ガルトゥング氏が掲げる「理想」自体を否定することはできませんが、その実現までの道程は極めて厳しいものであると看做さざるを得ません。ガルトゥング氏がこの世を去ってしまった現在、「領土問題」は私たちに遺された極めて難しい課題であると言えるのでしょう。
ヨハン・ガルトゥング氏の訃報を受けた後の沖縄の言論空間では、沖縄の平和主義者たちが「平和学の父」としてのガルトゥング氏を、自分たちの「平和運動」の精神的な礎として崇め奉っているかのような言説が見受けられました。
しかしながら、『日本人のための平和論』で展開された議論からも明らかですが、ガルトゥング氏の「平和学」は、沖縄に蔓延る非現実的な「絶対平和主義者」が語る「夢物語」とは一線を画すものであり、彼らの「夢物語」に理論的な裏付けを提供するものではありません。その著作を虚心坦懐に読めば、そのことに気づかないはずがありません。
沖縄の、いわゆる「平和主義者」たちは、ガルトゥング氏が「沖縄から米軍基地を無くすべきである」と明言していたことから、「平和学」を自らの主張にとって都合が良いものと受けとめ、それを利用するためにガルトゥング氏の「遺志を受け継ぐ」などと語り、崇め奉っているのではないのかという疑いを払拭することができません。
彼らは、「平和学の父」ガルトゥング氏の言説を(意図的に?)誤読・曲解し、恣意的な読み方をしている、もしくは、自分たちの主張に「都合の良い部分」と「都合の悪い部分」とに切り分けて選別し、前者だけを利用し、後者を無視しているということなのではないかという想像してしまいます。
このような平和主義者たちの振る舞いは、「沖縄の未来」を案じて、たびたび現地を訪れ、日本と沖縄のために「平和学」を説いてくれた「平和学の父」に対する非礼であり、これほど失礼な振る舞いはないように思えます。
非現実的な「夢物語」に耽る平和主義者による「平和学」の恣意的な利用を許すのではなく、我が国にとって現実的な「防衛・安全保障体制の構築」を目指す者こそ、ガルトゥング氏の「平和学」を学び、その知見を活用していかなければなりません。
極めて個人的なことですが、これまで過てる先入観によって、ガルトゥング氏の「平和学」を敬して遠ざけてしまっていたことが悔やまれます。遅ればせながら、「平和学」を学んでみようと思っているところです。
(注1) ヨハン・ガルトゥング – Wikipedia
・ガルトゥング氏死去 平和学の父 「積極的平和」提唱 93歳 – 琉球新報デジタル (ryukyushimpo.jp)
・平和学の父、ヨハン・ガルトゥング氏が死去 「積極的平和」を提唱、辺野古の新基地建設に反対 沖縄を「平和の拠点」にと提起 – 琉球新報デジタル (ryukyushimpo.jp)
・ガルトゥングさん死去 「平和学の父」新基地反対 93歳 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・「民意に沿う解決策を」/欧米識者ら工事強行批判 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・「沖縄の人々の意思に沿った解決策を」 欧米の有識者ら、工事強行を批判 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・「沖縄を平和の拠点に」「真の積極的平和を」遺志継ぐ ガルトゥング氏死去 関係者から悼む声 沖縄 – 琉球新報デジタル (ryukyushimpo.jp)
・<社説>ガルトゥング氏死去 沖縄の平和構築提言した – 琉球新報デジタル (ryukyushimpo.jp)
(注2)1996年10月に沖縄で開かれた「国際平和学シンポジウム」に招かれて来沖した際には、大田昌秀沖縄県知事(当時)と対談し、「沖縄はアジアの平和交流拠点になるべきだ」と提起しました。2014年には「辺野古基地建設反対 海外識者103人声明」の賛同人の一人として、普天間飛行場移設に伴う辺野古新基地建設に反対する意思を表明し、翌2015年には基地建設が進む名護市辺野古を訪れ、米軍ゲート前で抗議する市民らを激励しています。2018年12月に日本政府が埋め立て工事に着手した際には、取材に応じて「日米両政府の目標は、(日米安保を保つために)日本本土ではなく沖縄を犠牲にすることである」と指摘し、「(沖縄が目指すべきは)沖縄を米軍基地のない平和な島にし、韓国の済州島と共に東アジア共同体の中心にすることだ」と強調していました。
(注3)拙稿「私たちはガンディーにはなり得ないー沖縄の『平和主義』は『非暴力』主義に耐えうるかー」『表現者クライテリオン』110号(2023年9月号)
(注4) 日本人のための平和論 | 書籍 | ダイヤモンド社 (diamond.co.jp)
・米国依存から脱却提言/平和学の父・ガルトゥングさん | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・[大弦小弦]「両国政府は恥を知るべきである」。多くの国際紛争の解決に尽力し・・・ | 大弦小弦 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・[読書]ヨハン・ガルトゥング著、御立英史訳「日本人のための平和論」 米追従の政権 痛烈批判 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
(注5) 西部邁『核武装論 当たり前の話をしようではないか』講談社現代新書、2007年
※画像はウィキペディアより引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B0
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〇場 所:松本市駅前会館 中会議室(第1)
〒390-0815 長野県松本市深志2丁目3番21号
電話 0263-33-2966
https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/3/5648.html
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〇参加費:5,000円(当日受付払い)
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※懇親会参加希望の場合、申込みフォームにてチェックをお願いします。
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