『カッサンドラの日記』32 自律的抑制——ヘンリー・ダイアーが見た日本人の資質

橋本 由美

橋本 由美

 

 私がかつて日本に住んでいたとき、いつも口を酸っぱくして言っていたことがある。それは、日本人は自分たちの国を素晴らしい国に育て上げ、個人の生活を充実したものにするのに必要な限り、西洋の科学と文明を存分に利用すべきだが、それと同時に、日本人の生活と品性の特質をそっくり持ち続け、国民全体としてばかりでなく個人としても、それぞれの個性を失わないようにすべきだということである。——中略——みずからの過去を忘れ、独自の特質を放棄してしまうような国民は、けっして真の偉大な国民となる資格がない

 工部大学校の設立を担ったヘンリー・ダイアー(1848-1918)の言葉である。彼は、スコットランドに帰国後の1904年に『DAI NIPPON』を出版した。出版の目的は西洋の人々に日本を紹介することであり、自身に関わる工部大学校の記載部分は全20章のうち1章のみで、日本での滞在の経緯や立場を記したという程度に留めている。ダイアーは、24歳だった1873年から1882年までの青春時代を日本の教育に捧げ、非常に熱心に、且つ、真摯に仕事に立ち向かった。若い時代の強烈な経験は、「日本研究者」と言っていいほど、生涯を通して彼の目を日本に向けさせた。帰国後も日本の教え子たちと頻繁に連絡を取り合い、日本に関する多くの資料を自ら集めただけでなく、各界で要職に就いた工部大学校の教え子たちから、公文書や刊行物など多くの資料を入手していた。『DAI NIPPON』は、西欧人への紹介というだけでなく、同時代の日本研究の学術的な書物でもある。その内容は、日本の歴史から、幕末維新の経緯、天皇・教育・宗教・思想・政治・外交・軍事・経済・産業・貿易・財政や金融・食糧・伝統工芸・社会や人々の生活などを網羅している。

 その中でも、やはり自らが関わった工学(科学・技術)教育の社会的成果については、特別な関心を持っていた。彼は、中国や他のアジア諸国と比較して、近代化の受容には、その国民性が大きく関係していると考えていた。ある日本人(名前は明記されていない)の「この先解決を迫られる教育の問題について充分に理解するためには、民族学や社会学、さらには進化論一般を研究することが絶対に必要である」という言葉を引用して、「西洋」または「近代」は、受け入れ側の社会がどのような状態でどのような歴史を背景に持っているかによって異なるものだという認識を示している。彼は「教える側」であったが、近代化の成果は西洋の一方的な指導によるものではなく、むしろ受容する側の主体的な在り方と有機的に結びつくことで、それぞれの現れ方があるのだと認識していた。

 

愛国心・献身の精神・独立心 

 

 出版された1904年は日露戦争が世界的ニュースとなり、日英同盟を結んだイギリスでは、東洋の小国の目覚ましい近代化についても知られるようになっていた。明治維新の成功の決定的な要因を、ダイアーは「西洋の技術の導入や軍事力の増強」以上に「国民の資質」によるものだと捉えている。例えば、それまでに日本人が培っていた「愛国心・献身の精神・独立心」によって、アジア諸国が植民地化される情勢のなかで、外国への隷従を潔しとしない強い矜持をもっていたことを挙げている。

 欧米人一般は、自分たちが「世界の先端を行く優れたもの」であると「気をよくして」いて、「自分たちが満足するものに他の国が何故満足できないのかを理解できない」「この融通の利かない想像力に欠ける博愛精神が、実は世界の各地で何かとトラブルを引き起こす大きな原因となっている」という観察は、今でもそのまま通用する。清の全権駐日大使との交流からは、清国くらい「口先では〈平和の福音〉を説く外国人から大きな迫害を被った国は、ほかになかったのである」と述べ、アジアにおける白人の「侵略的な精神」「荒っぽい気性」が、どれほどアジアに負の影響を与えたかを「白禍(White Peril)」だと言っている。西欧人の「黄禍」という言い方は、「白禍」から身を守ろうとするアジア人の力を恐れて使われるのだと、彼は見た。三国干渉は「明らかにロシア・ドイツ・フランスの日本に対する警戒心(黄禍)と利己目標のなせる業」であったと述べていて、日本人にとって彼らの行為は「白禍」なのだという。ダイアーは、「白禍」を避けるために「日本が一貫して自主独立の立場をとってきたことが、決して間違いではなかった」と、何度も言及している。

 冒頭の言葉のように、ダイアーは日本人の特質を失うなということを、随所で述べている。それでは、彼の見た「失うべからざる特質」とは、どのようなものだろうか。彼は、先に述べた「愛国心・献身の精神・独立心」は、日本人のどの階級にも見られる、封建時代から日本に根付いているいくつかの特質によって生まれたものだと考えていたようだ。

 

簡素な生活と子供の天国 

 

 裕福な階級の者ばかりか、中産階級と労働者階級に属する多くの者も、それぞれの生活にそれなりの贅沢品や便利な生活用品を取り入れるだけのゆとりができたが、裕福な人たちの間でさえ、これ見よがしの鼻持ちならない生活を送る者などは見当たらず、大多数はまるで懐が不如意でもあるかのように、相変わらずつつましやかで簡素な生活を続けていた。日本で長いこと暮らしてきた著名な著述家は、「金持ちの日本人のなかに自分の富を見せびらかしたり、やたらと札びらを切って富を誇示する者は、見かけたことがない」と述べている。誰もが〈見せびらかしは罪〉という昔の日本の社会の規範を忘れてはいなかったのである。

 ダイアーのつき合った日本人も例外なく節度ある生活態度で、有名な資産家や一流の著名人も、簡素な生活習慣を守り続けているという。これを「自分が築いた富は自分個人の欲求を満たすために消費すべきものではなく、国家の役に立てるべき預かり物だと考えている」と捉え、そこに窺える公共心のようなものが愛国心や献身の精神に通じると考えたようだ。

  日本人が気づいていたのは、所持品が多くなり家庭内に複雑な装置が増えたからといって、それだけ生活が健全になるわけでも幸福になるわけでもないということで、日本人本来の簡素な生活の方が多くの点で望ましいということを認識していた。

 日本の庶民は欧米に比べればまだまだ貧しいが、彼らは「足るを知る」人々であると見ていて、物質主義に陥らない社会の在り方に品性を感じ取っていた

  日本は「子供の天国」と呼ばれていて、そうした評判はまんざら見当はずれなものではない。世界の子供たちを見渡しても、日本の少年少女くらい楽し気に暮らしている姿は見当たらない。よく言われてきたことだが、日本の子供には愛らしさと礼儀正しさに加えて、茶目っ気と陽気さ、そして子犬か子猫のような素直さがあって、しかも落ち着きがある

 『逝きし日の面影』(渡辺京二著)によれば、日本が「子供の天国」だという表現は、幕末に清から日本に移動してイギリスの全権駐日公使として着任したオールコックの表現が最初らしい。幕末維新に日本を訪れた多くの欧米人が、どこへ行っても子供たちが楽しそうに遊んでいて、それでいて礼儀をわきまえていることに驚きを持って言及しているが、ダイアーも同様な感想をもっていた。塾通いやいじめや不登校に象徴される今日の子供たちの様子からは、程遠い光景である。当時と今の違いは、社会の価値観が画一化されてしまったことであり、それ以外の生き方を認めなくなっていることである。鋳型に子供たちを嵌め込もうとすれば、子供たちから明るさは消える。一方で、子供の天国とは対照的に、女性の地位の低さには少々手厳しい印象のようだ。

  日本の女性は、多くの点で魅力ある人柄をにじませている。愛想がよく垢抜けしていて、何事につけ女性らしい心遣いを見せ、気立てがやさしく私心がなく、しかも貞淑である。妻から〈主人〉と呼ばれる夫の立場からすれば、まさに良妻であり賢母である。しかし、そうではあっても国民の知的生活の全体からは、締め出されているも同然で、政治も芸術も文学も科学も、女性にとっては〈わけのわからないこと〉である。こうした主題について論理的に考えることもできなければ、自分の意見をはっきり述べることも叶わず、そうした話題をめぐる知的な会話に加わることもできない。

 

精神の連続性——武士道と手工業 

 

 日本人の精神性を語るために、ダイアーは新渡戸稲造、岡倉天心、ラフカディオ・ハーンを度々引用している。特に、「武士道」という高潔な人格形成を目指す教育が封建時代から社会に浸透していることが、西洋の技術の導入以上に近代国家建設を成し遂げた要因だと見ている。新渡戸稲造の『武士道』には何度も触れていて、「武士の教育はただ試験に合格するとか金儲けに役立つといったことを目的としたものではなく、人格を陶冶することにあった。」「知力とは、まず何よりも分別と見識があることを指していて、単に知識が豊かだというだけではない」と解説している。

 また、ラフカディオ・ハーンの『心』を引用して、日本の西洋化の成功は「日本人が既存の思考機構の一部を再編成しただけのこと」であって、「そこに何か根本的な変容があったわけではなく、ただ昔から日本人の身に備わった才能をずっと大きな新しい手段に託しただけのことである」と、手工業の伝統技術が近代工業化の土台になっていると言っている。ダイアーは、単なる技術の手際だけではなく、偽物を嫌う彼らの誇りや、技を極める誠実な態度が、「西洋」を取り入れるときにも現れているのだと見做していた。国家建設においても近代工業化においても、当時の日本人に封建時代からの精神の「連続性」を見出していて、それを「国民の資質」と捉えている。近代になったからといって、日本人の資質がガラッと変化したのではなく、環境の変化のなかにも「連続性」を捉えたのは、彼がイギリスの保守思想の系譜にあったからではないかと思われる。ダイアーはエンジニアであって、自国の保守思想について自覚的ではなかっただろうが、考え方にはそれがはっきりと表れている。

 

道徳教育 

 

 日本の宗教についての言及は、ここでは論じる余裕がないが、明治期の多くの外国人教師たちにとって、学校での宗教教育がないことは驚きだったようだ。日本の教育では「修身」が授業に組みこまれていても、公立学校で宗教の教義という形では道徳を教えていない。ダイアーはこの件について客観的な立場で教育現場を観察しているが、宗教と教育が分離されているということがどのような展開を見せるか「世界中の教育家が注目するだろう」と述べているのは、やはり特異なことだという意識があったのだろう。世界の多くの国家では、いまも国家宗教がある。もともと宗教によってまとまった集団が国家を形成してきた長い歴史を考えれば、そう簡単に国家と宗教を分離できるものではない。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教など、国家の母体となる宗教の精神は、大抵の国で、学校での道徳教育の指針となっている。

 外国人教師たちにとっては、宗教教育こそが道徳教育であって、西欧のメタフィジックスの真理がそのまま当てはまると考えているために、宗教教育がないにも拘らず、日本の社会には、まぎれもなく「道徳」があるということが不思議なことだったらしい。当時、中国大陸から直接日本に来た旅行者や外交官も多く、清末の混乱での中国人の有様にいささか閉口していた彼らは、その対比で、日本の庶民の生活に感嘆に値するような「道徳心」「倫理観」を見たようだ。アヘン戦争や太平天国の乱で荒廃のなかにあった清では、庶民が卑怯で貪欲で信頼できるものではなくなるのもやむを得ないところがある。日本に着任して、その差に驚き、両者を比較した著述が数多くある。

 「絶対神」をもつキリスト教社会の常識では、唯一神の教義を抜きに道徳を語れない。至る所に大小の神社や寺院があり、道端のお地蔵さんや道祖神や小さな祠にも区別なく花を供えて拝む庶民や、尊敬されない聖職者としての生臭坊主の存在、武士階級の信仰心が薄いことなどは、彼らの宗教観では「堕落した社会」であるはずなのに、自国に比べても庶民にまで道徳観が行き亘っていることを、彼らはどう考えていいのかわからなかった。新渡戸稲造の『武士道』が、欧米でよく読まれたのは、その疑問に答えるものを見つけようとしたからかもしれない。

 

柔らかな秩序をつくる自律的抑制 

 

 彼らが見た庶民の「公共心」は、生活における規律にある。宗教的権威や為政者に強要されるのではない規律は、わきまえた人々の自律的な抑制にあるといえる。現代社会の「空気」に支配された同調圧力とは少々違う。人々は、長い年月の間に儒教的な倫理観と仏教が結びついた教えを通して、強制されることなく自らを律するようになった。己に恥じることのないように、欲望や怠惰を抑制する。宗教的権威や政治権力の「強制力」がなくても社会の秩序が保たれるのは、各自の「自律的な抑制」による。それが「献身の精神」や「公共心」という道徳的な態度として自然に現れるのが、日本の社会ではないのだろうか——そのようにダイアーは考えていたようだ。全体主義社会にはあり得ないのが「自律する精神」である

 田園地帯を訪れた欧米人は、管理の行き届いた田畑や、そこに点在する簡素で清潔な小屋のような住居が作り出す風景を、ヨーロッパの田園風景よりも美しいと言う(『逝きし日の面影』)。私たちにとっての里山の風景である。里山は、村人たちの「自律的」な労働から生まれる。田園風景の中に見る農民たちを、欧米の旅行者は「幸せそうな人々」だという。強制によらず自己を律する労働は人を不幸にはしはなかっただろう

 ダイアーが「失うべきでない」と繰り返し述べているのは、そのような「自律性」から生まれる誇りであり、己を律することが「公共心」や「献身の精神」「品性」になって現れていたと考えたのだと思う。しかし、彼は、日露戦争の頃から日本人が変質していくことも感じ取っている。そこには、漱石が、日露戦争の勝利に酔った人々の提灯行列を眺める心情に重なるものがある。「日本人の生活と品性の特質を失うな」という繰り返される忠告は、青春時代を捧げた日本への警鐘でもあった。第二次大戦後、「連続性」を断たれた私たちは、もう一度、彼の警鐘に耳を傾けるべきである。

 

『DAI NIPPON—the Britain of the East』 Henry Dyer著 /Blackie & Son, limited (London)/ 1904
『大日本』ヘンリー・ダイアー著 平野勇夫訳 /実業之日本社 1999
『逝きし日の面影』渡辺京二著 /平凡社 2005

『カッサンドラの日記』26 ヘンリー・ダイアーの工部大学校 | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)


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