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2024年の一大イベント、アメリカ大統領選挙が「無事」終わった。世界中が選挙速報を注目していたに違いない。「接戦」だの「拮抗」だのという事前の報道を思えば、むしろトランプ「圧勝」とも言える結果だった。TRUMP STORMS BACK―America Makes Perilous Choiceと大見出しをつけたのはニューヨークタイムズで、どの記事の見出しにも警戒感が溢れ、一瞥しただけで口惜しさと無念さが伝わって来た。日本でも日経は一面でも社説でも「脅かす」という言葉を多用して落胆と不満が読み取れる。どちらにも「unpredictability予測不可能性」という語が何度も現れ、不安が滲んでいる。
だいぶ前に買ったまま「積ん読」になっていた『ヒルビリー・エレジー』を思い出して読んでみたのは、この夏にトランプが選挙戦のrunning mateとしてJDヴァンスを指名したからだった。そして、この度の選挙結果で彼は「候補」から次の副大統領に決まった。次期トランプ政権をうまくフォロー(制御・操縦?)できたならば、年齢から言っても、2028年の大統領選挙で共和党候補になるかもしれない。既にお読みになった方も多いと思うが、この機会に少しばかり「読書感想文」を書いてみようと思う。
選挙期間中の彼についての報道は「以前はトランプを批判していたのに、2022年の上院議員選挙でトランプの支持を受けるのに態度を一変させた」とか、蒸し返された2021年の「childless cat ladies発言」が炎上してテイラー・スウィフトに嫌われたというようなものだった。実のところ、私は上院議員になってからの彼についてはほとんど知らない。情報は、どちらかの支持者のフィルターバブルにはまったものが多い。あくまでも『ヒルビリー・エレジー』で考えたことを思いつくまま書くことにする。
この本の出版はトランプがヒラリーを破った2016年、トランプ支持の「白人貧困層」が世界的にクローズアップされた頃だった。2008年にクリント・イーストウッドはラストベルトの様子を彼自身が主演・監督した『グラン・トリノ』で描いた。日本車の台頭でさびれた製造業の町に暮らす元フオードの自動車組立工だった老人の話である。既にこの頃、ラストベルトの白人労働者の貧困層は着実に増えていたということで、この年にはリーマン・ショックも起きている。それでも、トランプ旋風が起きるまではそれ程表面化せず、アメリカのイメージはニューヨークやカリフォルニアで、ウォールストリートやシリコンバレーだった。
『ヒルビリー・エレジー』は、JDヴァンスが31歳の時に書いた自伝で、イェール大学で指導を受けたエイミー・チェア教授の勧めによるものだという。貧困地域出身の貧困家庭の学生だった彼は、裕福な家庭の子女が多い名門校では異質な存在だった。チェア教授は、貧困地域の実情と貧しい少年がどのようにして人生を切り開き社会の階段を上っていったのかを、多くの人に報せるべきだと考えたのかもしれない。
一読して、まず感じたのは、彼の分析力である。回想録でもあるから、実際に起きたことや見聞きしたことを書いているが、地域や街に関しても、家族や友人に関しても、自分自身の感情や行動にも、必ず分析が加わる。社会的な分析であったり心理的な分析であったりするが、勿論、それは執筆時の31歳の彼が判断したものである。
出身地オハイオ州のアパラチア地域の住民たちはヒルビリー(田舎者)と呼ばれていた。祖先はスコッツ・アイリッシュの家系で、一族の住んでいたケンタッキー東部のジャクソンから、祖父母の代にオハイオ州南部のミドルタウンに移り住んだ。アームコという鉄鋼メーカーの本拠地である。業績不振に陥ったアームコは川崎製鉄と資本提携してAKスチールになった。アームコは川崎製鉄によって救われた。住民は、カワサキの買収を受け入れざるを得ないと内心わかっているが、彼らの誇りは傷つけられ、日本に対する反感はずっと燻っている。グローバル化の波に襲われたミドルタウンは、アメリカの他の製造業の地域と同じように衰退していった。JDヴァンスが、副大統領候補に指名されてから、「日本製鉄のUSスチール買収案」に反対した背景はここにあるだろう。経営的には他によい選択肢がないとしても、アメリカ労働者の自尊心が強烈に傷つけられるであろうことを知っているからだ。
アパラチア山脈地域の住民の話など、私たちは普段はまったく耳にしない。2016年のアメリカでも忘れられた地域だったから、多くの人がトランプ現象の理由を知ろうとしてベストセラーになったのだろう。ここでは、ラストベルトがどれほど貧しいか、経済的な貧困だけでなく、家庭・教育・精神すべての貧困に覆われていることなどが、実例で語られる。
どこの国でも貧困層は似ている。けれども、アメリカの貧困地帯は、街全体が荒んでいて、特に街中でドラッグと銃器が「普通」に見られることに「凄み」を感じてしまう。アメリカに住んでいる知人が、高給住宅地の外に行けば、公園に注射器が落ちているのをよく見かけると言っていた。ミドルタウンではどこの家も貧しく、家族にはドラッグをやっている者やアルコール依存症がいて、暴力や罵り合いがあり、離婚や片親家庭や継母や継父は珍しくない。家族はお互いに愛情を持っているのに不満や感情の制御が効かず、ドラッグやアルコールや経済的困窮で家庭内暴力が絶えない。どの家庭も崩壊している。家庭内も周囲の環境も似たようなもので、そこで育つ子供たちはそれ以外の環境を知らない。
家族や親族の一人ひとりのたくさんのエピソードとともに、彼らがどのような人生を辿ったかも語られる。子供の自分が、彼らをどう見ていたか、どのように関わったかを振り返って、自分の人生にどんな影響を与えたかを考える。それぞれの人物が一口では言えない悩みや葛藤を心に秘めていることも察している。中でも、何度も離婚を繰り返しドラッグに溺れて最後はヘロイン中毒になる母親、子育てのできない母親に代わって自分を育ててくれた祖母、小さいころから母親のように自分を守ってくれた姉についての記述は詳しい。
このような地域の学校の教育レベルは低く、高校をドロップアウトしていく者も多い。大卒の住民は殆どいなくて、少数の勉強のできる子がオハイオ州立大学に進むのが最高の学歴である。他の地域の大学という発想すらない。地域全体に漂うのは、単に経済的貧困というだけでなく、無気力と怠惰であって、住民は貧困から抜け出す術も意欲も失くしている。17歳のとき、彼は、祖母に強く勧められてスーパーのレジのアルバイトをする。店の客の姿や行動を通して街の実態を知った彼が、貧しい者が何故貧しさから逃れられないのかを社会問題として意識したのは、彼にそれだけの資質があったということだろう。
JDヴァンスがミドルタウンを脱出したのは、海兵隊に入隊したときである。高校を卒業して進路に迷っていた時に、従姉がアドバイスしてくれた。卒業時点の彼は、オハイオ州立大学に行くために必要な経済的負担についての情報すら持っていなかった。願書を出して、書類が届いてから初めて彼は学費やローンについての詳細を知る。学費を稼ぐための海兵隊の経験が、彼の人生を変えた。軍隊というところでは、「私」を殺さなくてはならない。「命」のかかった目的遂行のためには、自分の欲求を抑える必要がある。訓練で、それをとことん鍛えられる。そこで学んだことは多い。与えられた課題を、努力と強い意思によって一つひとつ乗り越えることが出来るという「自信」は貴重だった。肉体的な鍛錬や技能の習得だけでなく、金銭管理や健康管理など、家庭で学べなかった生活に必須の項目も学んだ。海兵隊で「大人になる準備」ができたという。
海兵隊で、彼はとんでもない「飛び級」をする。イラク戦争に派遣されたとき、基地のメディア担当官を務めていた大尉が失脚して、突然あいた穴を埋めるためにメディア担当官に抜擢された。本来、最上級の士官が担当する任務に就いたのである。戦場は生死を賭けた場所である。実力のない者に簡単に重要な任務を任せることはないだろう。基地内で、彼はそれだけの評価を得ていたことになる。
彼は、復員援護法による援助とアルバイト収入で、オハイオ州立大学を1年と11カ月で終了した。他の学生たちを見て、長く居るところではないと思ったという。時間を浪費せずにできるだけ早く終了するために、夏休みも授業を受けて単位を取り、アルバイトをいくつも掛け持ちして学費を稼いだ。文字通り睡眠時間を削って仕事と勉強を両立させ、ダブルメジャー(2つの専攻)を最優秀で卒業した。これには、強い意志と体力が不可欠だ。たいていは、途中で意思が挫けるか、身体がついて行かずに頓挫するだろう。海兵隊での徹底した自己管理が生きたのだと思う。アルバイトに励んでいる日本の大学生に同じことが出来るだろうか。
自分の経験から、機会均等のチャンスが与えられても、生活保護やフードスタンプなどの公的扶助に依存して働こうとしない人たちに、厳しい視線を向けている箇所がいくつかある。彼は、イェール大学のロースクールに入学を許可され奨学金で進学できることになった。入学までの期間を、彼は今後の学費や生活費を工面するために床タイルを扱う会社でアルバイトをする。そこで見たのは、昇給や待遇面で経営者側から多くの配慮が提供されていながら、怠惰や欠勤で真面目に働こうとせず辞めていく若者たちだった。チャンスを自ら放棄しているのだ。彼らは自分のせいで職を失うと、クビにした経営者に食ってかかる。「そんな状況に自分を追い込みながらも、周囲の人がなんとかしてくれるべきだと考え、なんでも他人のせいにしようとする。」黒人貧困層に目を向けている政治に対して、「私は、そうした人たち(アパラチアの白人労働者階層)のほうが同情に値すると主張したいわけではない。」「人種というレンズを通したゆがんだ見方をするのではなく、貧しい人たちにとって、社会階層や家族がどのような影響を与えるのかを理解してほしい」のだと述べている。
彼の成功は、めぐって来たチャンスを逃さなかったからだといえる。しかし、チャンスをものにするにも、チャンスに気づくのも、それまでの蓄積がなければどうしようもない。海兵隊で学んだのは「全力を尽くす」「言い訳をしない」ということで、貧困家庭で育った者にはそれができない。薬物依存、早すぎる結婚、投獄、怠惰が普通な社会で、何故、自分がそこから抜け出せたのかという理由を、「自分を見捨てない人」の存在があったからだという。無学で乱暴で口の悪い祖母でも「してはいけないこと」「何が正しいか」を知っていた。公的扶助などの貧困対策は、必ずしも貧困を解決しない。アファーマティブアクションがあっても、そこまで行きつけないのが荒廃した貧困地域だ。ワシントンで不自由なく暮らしている人たちが考える政策では、ヒルビリーを救えない。突き詰めれば「家庭の愛情」「他者からの関心」という支えを失ったことが、貧困問題の奥にあるのではないかと、彼は考えた。
ヒルビリーたちは、オバマが嫌いだ。「私が大人になるまでに尊敬してきた人たちとオバマのあいだには、共通点がまったくない。」「完璧すぎる学歴は恐怖すら感じさせる。」「現代のアメリカにおける能力主義は自分のためにあるという自身のもとに、立身出世を果たした。」「オバマはアイビー・リーグのふたつの大学を優秀な成績で卒業した。聡明で、裕福で、口調はまるで法学の先生のようだった。」そして、「オバマの妻は、子供たちに与えてはいけない食べ物について注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ」と、オバマ時代の貧困層の気持ちを代弁している。
今回の選挙戦の終盤に、民主党大会ではビヨンセやミシェル・オバマ夫人が応援で壇上に立った。日本のニュースでは、彼らはアメリカで人気があると伝えている。しかし、トランプ支持者は、セレブの匂いが纏わりつく彼らが大嫌いなのだ。ミシェル夫人を応援に呼ぶということは、民主党員の結束を固めるには効果があるが、ヒルビリーたちの気持ちを逆撫ですることでしかない。貧困層に寄り添う姿勢を見せなかった民主党は、最後に、新たに積み増すべき票を逃した。
民主党の掲げるトランスジェンダーや環境問題は、今日の食べ物にも事欠く貧困層にとっては無関係な世界である。高尚な言葉で語られる理想論は、彼らの耳には届かない。わかりやすい「エリートの陰謀論」を信じる彼らは、小学生でも知っている簡単な語彙でセレブを攻撃するトランプに喝采する。そんなトランプやトランプ支持層に、JDヴァンスがどれだけ共鳴しているのかは不明だ。『ヒルビリー・エレジー』を読む限り、白人労働者たちを理解し寄り添いながらも、彼らの「他人のせいにする」態度や「公的扶助の依存から抜け出せない」生活には批判の目を向けている。
まだ世の中を知らなかったJDがオハイオ州立大学卒業時には、とにかくロースクールへ行くべきだということを知った。友人たちの進路を見て、アイビー・リーグ以外のロースクールでは意味がないと知った。その頃の彼の知識はそこまでで、将来の進路が明確だったわけではない。しかし、とにかく大学で学ばなければいけないことはわかっていた。ピーター・ティールも「若者にとって、大学とは進路がわからないときに進むべき道だ」と言って、奨学金制度を設立している。「学ぶべき時に全力で学んだ」ことが、将来への道を開いたことだけは間違いない。
選挙戦と国家の運営は違う。この先、教養人とは言えないトランプを、彼の知性でどの程度「制御」できるのだろうか。トランプより目立てば「クビ」になりそうで、取り扱いが難しいボスである。何よりも、権力の中枢に在って、この本を執筆した当時の精神を保ち続けられるだろうか。JDがイェール大学のロースクールで学んだことは学問だけではなかった。その最大のものは「金融とは、実際に人が働く業界である」ということだろう。有力な法律事務所や投資会社に就職する際にロースクールの人脈の力を見せつけられた彼は、何度も「ソーシャル・ネットワーク」について語っている。社会関係資本は、ネットワーク内部に入って初めてその価値がわかる。階層社会の下層からは、それが見えなかった。投資会社時代からの友人ピーター・ティールは彼の支援者であるし、ティールのペイパルの仲間には勿論イーロン・マスクもいる。トランプ政権が掲げる規制緩和は、テック産業には歓迎だろう。
南アフリカからの移民でアメリカ合衆国大統領になるための資格を持たないマスクが、選挙の真の勝者かもしれない。アメリカの選挙では巨額の資金が動く。スーパーPACのおかげで、2024年の大統領選挙費用の総額は過去最高の159億ドル(2.45兆円)に上ったという。日本の選挙資金など小遣い銭にもならない。政治や先端科学に巨額の投資をして、国家をも支配する「富める頭脳集団」Plutocracyに、ヒルビリーの実情を知っているJDはどのように関わっていくのだろうか。ヒルビリーの貧しい者たちと「富める頭脳集団」の差は、あまりにも大きい。経済的困窮を救うためのテクノロジーは全体主義を回避できるのだろうか。AIはテック分野の雇用さえ減らす可能性がある。教訓は、国家は製造業を失ってはいけないということだ。アメリカで起こっていることは「民主主義の危機」というよりも、階級闘争に見える。
最後に、今回の大統領選挙の感想を言えば、「下品な選挙」だった。トランプだけでなく、ハリスの言葉にも品がなく思想も哲学もなかった。個人攻撃の非難の応酬が続き、分断の大きさを見せつけた。選挙結果判明後に、イェールで学位を取りコーネル大学で長年教鞭を取っていた古い友人から来たメールに、少しばかり衝撃を受けている。いつも冷静で公平で知的な人物が、トランプ再選に感情的になっていて、嫌悪感剥き出しだったのだ。東部エスタブリッシュメントである彼は、トランプもJDヴァンスもマスクも全否定である。トランプ支持者の熱狂と喝采、民主党支持者の怒りに満ちた拒絶反応に、あらためてアメリカの深い亀裂を感じている。
『ヒルビリー・エレジー』JDヴァンス著 関根光宏・山田文訳 /光文社未来ライブラリー 2022
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橋本由美
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