私たちが抱く江戸時代のイメージは、元禄文化の浮世絵などに描かれた煌びやかで活気溢れるものか、または飢饉や地主に虐げられる悲惨な農村かのどちらかが大半だろう。だが、徳川幕府が朱子学を代表とする儒学を背景に、有機的で倫理的な社会を構築するために試行錯誤した側面を見落としてはならないと著者はいう。そして、この「江戸時代の遺産」は現代にも連綿と受け継がれているという観点から本著の「物語」が紡がれていく。
まず、中世から信長、秀吉、家康までの歴史が足早に語られる。ここで特筆すべき点として、中世的な主君と家臣の主従関係は公共意識が希薄だったことから、武士は「国民の守護者」であり、日本という国家を守る存在だとする「武士の存在理由の転換」が、家康によって行われたことが挙げられる。そのために、思想の面では近世儒学の最大学派であった朱子学が採用され、藤原惺窩や林羅山などを通じて広く普及することになった。
しかし、朱子学といっても、江戸時代において最初に受容されたのは、原著ではなく注釈が付された『四書大全』や当時に流行していた学説であったため、純粋な朱子学と言えるものではなかった。さらに、政治、経済、医学、教育、地理など諸分野の知識を朱子学者が紹介する役割を担うことで、朱子学は学問の総称ともいうべき状況であった。
この結果として朱子学は、理を追求しつつ個人の倫理を高めるという本来の目的だけではなく、農村の自治や貨幣政策のような、政治や経済などの多方面に影響を及ぼすことになった。さらに、朱子学に反発する形で陽明学、古学、古文辞学が生まれ、合理性や人倫を重んじつつ、各人が己の役割を全うすることで、精神的自律を得た個人と社会が相互に循環して発展するという日本の近世特有の思想的基盤が整えられた。
そして、新井白石や松平定信に代表される多くの「英雄」たちが、日本人が生き生きと日々を過ごすことが出来る社会を築くために悪戦苦闘しながら作り上げてきた思想や諸制度は、明治維新以降の西洋化の波に揉まれ、敗戦を経験した現在でも絶えることなく日本社会に生き続けていると著者は主張する。
評者としても、「国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去った」などの浮ついた言説に踊らされずに、現在の日本社会の「当たり前」の原型を苦闘して作った江戸時代の先人たちに思いを馳せることが必要だと考える。また、この「英雄たちの物語」を絶やすことなく、次の世代に語り継ぐことが今を生きる我々の責務だと意を強くした。本著は単なる江戸思想の教科書ではない。私たちの歴史を再認識し、「日々を戦うための物語」が語られているのだ。
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